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MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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ペリカン・ディナー - 信頼
ペリカン・ディナー - 信頼_c0131701_17192741.jpgわれらがコアチーム、"Indian Pelicans"でディナーをした。
思えば全員揃うディナーは、1年振りくらいかもしれない。素晴らしくも終わりつつある2年間の成功と、友情と、荒波に漕ぎ出すわれらの将来の栄光に祝杯をあげる。


仲がよく、お互いを信頼しあっていたこのチームは、ずっと定期的にランチを共にし、よく「仲がいいね」と言われた。そんな時、誰もが

"Because we are the best team!"

と答えて憚らなかった。そんなチーム・ペリカンが、最後にして本当の友情に辿り着いたと思う出来事があった。

アメリカでは政治と宗教の話はするな、といわれるが、私のチームではことさら政治の話は全くなかった。デリケートなチーム・ダイナミクスがあったため、皆政治の話題は避けていたのだ。

私のチームには、レバノン系アメリカ人のパトリックとイスラエル人のイタイとがいる。高校生の時に家族で米国に移ったパトリックは、小さい時にイスラエルの侵攻を経験している。両親があやうく死にかけたというから、かなり鮮烈な記憶なのだろう。だがそんな彼は、イタイが幹事をしたイスラエル・トレックに昨年参加した。一方でインターンではコンサルティング・ファームのドバイオフィスで働き、イスラム圏のアイデンティティも再認識したようだった。

そのパトリックとイタイとが、政治の話をしたのだ。私がイスラエル・トレックに行ったという話がきっかけだったが、イスラエルの政治について話し始めた。パトリックは極めて中道的なコメントなので、直情的なイタイと変な議論にならなかったが、この姿を見て、チームの姉貴分のエイミーが
「あんたたちが政治の話をするところって、初めて見たわね」
と驚いていた。

イタイは徴兵中は戦闘部隊にいた(スローンのイスラエル人の多くは諜報部隊出身で、戦闘部隊はイタイともう一人しかいない)。パトリックもイタイも、中東紛争は自分の命と直結した経験である。その二人が、信頼し合って、将来のことを話し合う。

非常に象徴的であり、友情とは、信頼とは何かを気づかせてくれる夜だった。
# by flauto_Sloan | 2009-05-07 23:49 | 交友
Boston Pops – GALA Concert
Boston Pops – GALA Concert_c0131701_16481889.jpg BSOがコリン卿のテ・デウムで今シーズンのプログラムを全て終え、白い礼服に衣替えしてボストン・ポップスとなった。シンフォニー・ホールにも「POPS」の看板が立ち、ボストンの街もPOPSの文字が躍りだした。
今日はそのボストン・ポップスのガラ・コンサートであり、着飾ったボストンの人たちが嬉しそうにホールへ集まった。ガラらしく華やかで楽しいコンサートであり、BSOのいつもと違った一面が見られた。

Boston Pops – GALA Concert_c0131701_16485419.jpgいつもは客席の一階は、客席を取り払いテーブル席となり、お酒を嗜みながら音楽を聴ける。私は二階席だったのでお酒は飲めなかったが、きらびやかな舞台を高みから楽しめた。

BSOの面々はいつもよりもリラックスしているように見える。指揮者のロックハートが舞台に上がり、ポップスの季節を爽やかな響きで告げた。舞台にはボストンの映像が移り、美しい街への愛おしさが、ボストン・ポップスの素晴らしい演奏で高まる。

今年新たにリリースしたCDが、昨シーズンのレッドソックスのワールドシリーズ制覇を記した、レッドソックスにちなんだ曲を集めたものだったこともあり、第一部の終わりにはその収録曲も演奏し、ボストニアンの心が躍りだした。

後半の特別ゲストには元ブロードウェイ・スターのバーバラ・クックを呼び、ミュージカルの名曲ナンバーを次々と歌い上げた。クックは大御所らしい堂々としつつ、チャーミングさも持ちながら歌う。聴衆もリラックスしてそれを楽しみつくした。

クラシックで腕を磨いているBSOが、高いアンサンブル能力と明るい音色で奏でるボストン・ポップス。いかめつらしく学問をしつつ、レッドソックスに熱狂するボストニアンと似ている。まさに地元に育てられ、愛されるオーケストラの姿がそこにあった。
Boston Pops – GALA Concert_c0131701_16485956.jpg

# by flauto_Sloan | 2009-05-06 23:46 | 音楽・芸術
最後のボーゲル塾
最後のボーゲル塾_c0131701_1528719.jpg2年間門下にいたボーゲル塾。今日はハーバードで講座を持つ武見敬三元参議院議員をお迎えし、最後のボーゲル邸での勉強会だった。
私の属していた、少子高齢社会での社会システム研究班が一年の討議結果を報告・議論し、ボーゲル先生からの最後の薫陶を受けた。本当に素晴らしい師であり、得難い機会であった

2050年の日本!?
討議内容の詳細は割愛するが、少子高齢社会となる2050年の日本の姿を考えるのは、非常に刺激的だった。移民政策の大きな転換がない場合、2050年には日本の人口が9000人から1億人にまで減少し、しかも高齢化が進む結果、労働力人口は半減する(現在の基準の場合)。

当然社会保障制度は現行のままでは立ち行かないし、産業も国内で若い労働力を調達することは非常に困難となる。内需は縮小していくだろうし、対外的に見れば中国はもちろん、現在の新興国にも経済規模で抜き去られる可能性が大きい。

ではどうすべきか。まずは移行の仕方や実行可能性を考えずに、どんなシナリオがあるのかをやや極端に描いて議論していったのだが、正直言って納得感のある絵はなかなか描けない。学生が10人集まって簡単に描けるようなら苦労しないのは尤もなのだが、1億人もの多大な人口(アメリカと中国ばかり気になり実感しにくいが、日本は人口大国でもある)と、縮小傾向だが巨大な経済規模を支えつつ、老いて減りゆく国民が国を成長させるというのは、非常に難しい。

人口が3/4になるなら、一人当たりGDPを4/3にしないとGDPは維持できない。だがそんなに生産性の高い仕事はなかなかないし、あってもそこに必要なスキルを国民の大半が身に付けることは難しい。グローバルな競争下ではなおさらだ。

一方で医療費や福祉関連に必要なコストは増大していく。それを賄うために増税は早晩必要なのだが、個人から取れば負担は激増するし、企業から取ろうとすれば海外移転や海外での再投資が進み、税収自体が減る。

解があるのかもわからない、複雑な連立方程式だ。


老いてますます盛んに
これが答だと言うつもりは全くないし、解決するのはごく一部の問題だとわかった上で、個人的には、2050年の日本では老人起業家が続出し、老人の、老人による、老人のためのビジネスが主流になってほしいと思う。「老人」の「老」の意味合いも変わってくるだろう。衰え、人生を閉じようとしている状態ではなく、体力と引き換えに多くの経験と知恵が蓄積した状態、と捉えるべきだろう。ただし、老人ビジネスが既得権益の確保であっては、ただでさえ貴重な若者の気鋭を殺いでしまう。老人企業を促しつつ、あくまでフェアな経済原理がはたらく制度設計が望ましい。

老人起業モデルが成功し、日本に「シルバー・バレー」が箱根の温泉街あたり(?)にできたら、やがて遅れて高齢社会を迎える他国の規範となるだろう。いつもゲームのルール作りで他国の後塵を拝している日本が、構造的に世界をリードする最後のチャンスかもしれない。

年金も、平均寿命よりも支給開始年齢を遅くするくらいの思い切りがあってもよいのかもしれない。そもそも年金制度をビスマルクが設計した時、支給開始年齢の65歳は、当時50歳以下だった平均寿命よりはるか後だったという。

半減する労働力人口を支えるには、現在就労率の低い老人、女性、子供を働かせるか、人間以外のロボット、コンピュータか牛馬を使役させるしかない。これ以上の少子化を防ぎ、教育水準を維持するなら、人間における優先度は老人であろう。もちろんそのためには、老人が働き易くなり、老人ならではのポカやミス(特に痴呆は大きなリスク)をよけるための技術やノウハウを蓄積していくことも必要だろう。

・・・云々と考えていて、はてこの定年なしに働かされ続ける2050年の老人は誰だろうと考えてみると、外ならぬ自分である。少しは休みたいと思う気持ちはあるが、一方で、その頃の老人ならば英語が話せ国際経験があり、若い頃からコンピュータに触れている。今の老人とはまた違う動き方・考え方をしていることだろう。想像(妄想?)には限りはないが、高齢社会も遣り様によっては面白いかもしれない。悲嘆ばかりしても仕方ない。


老師エズラ・F・ボーゲル
いつまでも矍鑠としていて洞察深いボーゲル先生と議論し、また2050年の高齢者とはまさに自分達だと気づいたとき、老いることの可能性、生涯学び続け成長し続けることの楽しさに触れ、それを信じたいと思った。

そしてこの2年を通じて、天下国家を語るための視点とはどのようなものか。まだまだ浅学にして未熟者でありながら、ボーゲル先生から少し学ぶことができたと思うMITで講演を依頼した時に、個人的にお話させていただく機会があったのだが、先生は日本人以上に日本と日本人を愛する、知の巨人でありリーダーだった。その先生に学んだ志と、それを一にする門下生の結びつきとは、日本に帰るにあたって一番の土産かもしれない。

このボストンにて、ハーバード松下村塾(ボーゲル塾の正式名称)に通えたことを、誇りに思う。
# by flauto_sloan | 2009-05-04 23:15 | Harvardでの学び
OpsSimCom - 遊びて学ぶ
MIT Sloan Operation Clubが主催する、MBA Operation Simulation Competition に、スローンのブロガーであるKazさんShintaroさんと参加した。(その様子をKazさんがブログに書いている)

一度昨年のオペレーション入門の授業で行ったシュミレーション・ゲームなのだが、今回は不況を反映して設定が変わり、キャッシュが枯渇しそうで借金もできない中、3日間フル稼働で工場運営をし、一番キャッシュを稼いだチームが優勝となる。参加チームは全世界のビジネススクールから100チームで、中国のCEIBからも多数参加している。


前回の授業の時に、かなり手ひどい失敗をしてしまい、生産計画とはどういうことか、コミュニケーションや委任・信頼とは何かを学ぶこととなった。今回はその教訓を生かして、目指せ上位、と意気込んだ。

3日間はなかなか睡眠不足で、いつも工場のことが気になるほど、3人とものめりこんでしまった。

だが結果は・・・残念ながら中の下といったところ。これはこれで学ぶことは多かったのだが、やはり周到な事前計画と、予想と現実がずれたときの思い切った判断/度胸が必要だと痛感。これを一人で行えることが望ましいが、人間にはマインド・セットやメンタル・モデルがあるので、これをカバーするチームワークはもっと重要であり、チームがワークするための、信頼とタイムリーで密度の濃いコミュニケーションは必要だ。


前回の授業の設定をベースにShintaroが素晴らしいモデルを作ってくれた。これで事前計画が進み、非常に効率的で効果的なスタートを切れたのだが、今回のゲームでは、需要の現れ方が前回と大幅に変わったり、ある機械のキャパシティが最後までなかなか把握できなかったりと、試行錯誤で修正しなければならない部分が多かった。だが工場運営に追われ、集まった運営データからモデルを修正する人を置けなかった。オペレーションの授業だからといって、オペレーションに埋没してしまっては意味がない。現場監督だけでなく、経営企画部も持たなければ、企業は大きく成長できない。

また、現場での判断は、最後は合理性の彼方にあるので、そこでは自分の性格や、過去の成功または失敗経験が知らず知らず影響してしまう。それに気が付いて補正し、できるだけ偏らない判断にすることは、一人では極めて難しい。せっかく能力的にも相性としても良い、強いチームだっただけに、ゲーム進行中に一歩引いてチームダイナミクスを観察し、経営企画を作ろう、といった方向修正を早めにすることができていれば、もう少し上位になれたかもしれない。


オペレーションで学んだことも、リーダーシップで学んだことも、実践は難しいのだが、シミュレーションというリスクのない状況だからこそ、失敗からこうして学ぶことができる。まさに参加したことに意義があった。

ともあれ、なかなか大変ではあったし、賞金は遠く逃したが、非常に面白いコンペティションだった。


ちなみに、優勝はスローンのLFM (Leaders For Manufacturing) という、MSとMBAのヂュアルプログラムの人たちのチームだった。主催校のスローンが優勝できて、まずはなにより
# by flauto_sloan | 2009-05-03 13:55 | MITでの学び(MBA)
ダライ・ラマのMIT訪問
ダライ・ラマ14世がMITを訪問した。数年前にもMITはダライを招待し、今回が二回目となる。抽選に漏れてしまい、直接拝謁することは叶わなかったが、同時中継をする大教室で、このチベット仏教最高指導者の話を聞いた。中継会場であっても、入場時に全員起立し、最大の敬意を表す。残念なことに、中国系学生はあまり見られなかった。

禅僧のような厳しいお方かと思っていたが、ダライ・ラマはユーモアに溢れ豪放磊落であり、立場が異なる、あるいは敵対する人でさえも包み込むスケールの大きさを持っていた。英語は流暢な訳ではないが、短い一言一言は非常に考えさせられる深さを持つ。

チベット仏教の最高指導者であっても、「私は仏教を広めるつもりはなく、どんな宗教でも尊敬する」と仰ったのには、仏教徒としての共感と、その立場それ自体への尊敬を感じた。また、「チベットが独立して民主化を勝ち取っても、自分は宗教家であり政治化にはならない」とも仰り、人々への信頼と強い愛を感じる。

社会が抱える問題に対しては、「対案がなく改善のしようがなければ忘れてしまいなさい。さもなくば、ひとまず何かやってみなさい」と、前向きで勇気づけるメッセージをお送りになる。

翌日のジレット・スタジアムでの説教では、「私たちは皆同じ。違いなど取るに足らない」と始められたという。人種や派閥に区切られない、高次な世界がダライには見えている。

総じて、宗教指導者というよりも、民主主義と人々への信頼を訴える一人の人間、という姿が強く浮かび上がる。その背後の仏教的世界観や価値観が深いため、そのメッセージが一人の人間のものとしてでなく、より大きな意思として感じられた。

何より、このノーベル平和賞受賞者への非難や中傷を続ける中国共産党に対して、ダライ・ラマは恐れをまるで持たないばかりか、それを超えた敬意というか、共産党を赤子のように温かく見守り、その上で叱責する姿が印象的だった。個人攻撃を受け止めた上で気にせず、共産党の批判のようでいて、瞳の奥底に愛すら感じた。

対立や浅ましい憎しみ合いの彼岸にいるのは、このような方なのか、と感じ入った。

ダライ・ラマのMIT訪問_c0131701_1355617.jpg

# by flauto_sloan | 2009-05-01 23:49 | MITでの学び(非MBA)