MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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振り返りと抱負 - Cum Mens tum Manus
実り多かった2008年も終わり、いよいよ帰国の年2009年だ。この1年を振り返り、今年の目標を立てたいと思う。

2008年を省みる
学ぶことを学び、考えることを考えた一年
c0131701_039954.jpgこの一年間、授業や課外活動で、非常に多くのことを学んだ。

経済学、システムダイナミクス、リーダーシップ、交渉術、ファイナンス・・・ だがそれらを振り返ると、結局のところ学ぶとはどういうことか、ということを学んだのだと思う。

経験はそれ自体必ずしも学びではなく、そこへ自分の信じる、きわめて個人的な何らかのモデル(もしくは信念)を適用して分析し(これが反省というものだと思う)、モデルを追認するか、期待値を現実に引き寄せるか、アノマリーを見つけてその理由を考え、モデルを更新することで、学ぶことができる。その差分である学びの蓄積が、自己を形成し、社会との関わりへの自由度を増す(より広範な選択肢を持ちうる)のだと思う。

社会に出てからは、当てはめるべきモデル(価値規範、哲学、将来像等々)がしっかりしていなかったがために、コンサルティングによる豊富な経験をしておきながら、「学んだ」という実感がなかった。経験を経験として消費していただけだった*1

今は失敗も成功も、経験を糧として追体験し、学ぶだけの余裕と知見を得た。上手くいったプロジェクトを振り返って自信を取り戻し、失敗したプロジェクトを直視して、なぜ失敗を免れなかったのかへの想像力が少しばかりつくようになった。


そうして学ぶことを学ぶと、次に考えることを考えるようになった。考えるとはどういうことか、考えることの限界はどこにあるのか。まだまだこれについては考えがまとまらないが、やはり世界をある一定の前提の下で、あるモデルへと捨象することで、問題に対する答えの仮説を構築することなのだろう、と思う。だがそのモデルは二元論的、還元的であっては最早現実に追いつかず、全体知を同時に得られるものでならねばないだろう。

システム・ダイナミクスはその点で非常に優れたモデルだと思う。世の中には限りない幅があり、善悪や白黒の二元論で考えることは、効率性のために妥当性を犠牲にしている。「ポジションを取る」と謂われる強い判断を繰り返していくことは、スピードを得られる一方で、真理とのギャップが摩擦を生む*2。真実は善悪の狭間に、という単純な直観と思考の柔軟性が必要なのだろう。創造性は対立構造を止揚することで、往々にして得られるのだから。


そうして考えることを考えていくと、伝えるべきことをどう伝えるべきか、という最後の問になる。どんなに正しいと思われることを考えても、正しく伝えて人を動かせなければ、意味がない。ここで、コミュニケーションやリーダーシップからの学びが重要になってきた。

自分の考えを敷衍していくためには、自分の考えを相手が受け入れてくれるような環境・構造を作り、受け入れてくれる相手の思考や価値観を知り、効果的な手段で伝えなければならない。特に最初に揚げた環境や構造をどう作るのかというのが非常に重要だが、これが一番難しい。どうやって人の認知に入り込むか。

ここで、私の生来の興味である、嘘とは何か、という興味に立ち戻った。嘘とはなんだろうか、効能、手法、評価(社会的、宗教的)と、考え始めると興味深い。このあたりが今後の興味分野となるだろう。


真に愛するものとしての音楽
c0131701_0404724.jpgNYにボストンと、数多くの演奏会に出向いた一年でもあった。音楽を聴き続けているうちに、改めて自分が音楽を本当に愛していること、良い音楽を聴くと理屈抜きに喜びを感じていることを知った。

そしてリーダーシップの授業を通じて、音楽の持つ深く強い力を確信するようになった。人間の本能的活動を、磨き鋭くすることは、人間本来の力を強めることでもあるのだろう。そして個人としての能力を高める日々の鍛錬は感性を研ぎ澄まし、全体としての響きや表現を高めるための合奏は、理屈ではない本能的な協調能力を育むのだろう。

では私は今後音楽とどのように関わっていくべきか。それが大きな問として、今自分に投げかけられている。


漂泊の中に見出す生
c0131701_0514191.jpg妻と夏休みを中心に、数多くの旅に出た。北米・中米の大自然と、そこでの人の営みの違いを目にし、体感し、生きるとはどういうことなのかを考えさせられた。過酷な自然と豊穣な自然、その中での人々の生活と感性・価値観との関係は、単純化できないものの多くの智慧を与えてくれるように思える。

中西部の荒々しく広大な大地に対するインディオの崇敬、プリンス・エドワード島の美しく豊かな自然から生まれる文学、モントリオールの鮮やかな山々とゆったりと満ちた生活、テキサスの広大さと歴史からくる自立心・・・ 旅をすることの面白さをつくづく実感した。

そして何より、妻と素晴らしい時間を過ごせたことは、我々夫婦の忘れがたい財産だ。


恋人から伴侶へ
c0131701_0503626.jpg妻が一足先に卒業し、今年は比較的余裕を持って二人でいられる時間が長かった。恋人気分に溢れた新婚生活から、生涯の伴侶との夫婦生活へと脱皮した一年でもあった。

二人で多くの音楽を聴き、旅をし、美味しいものを作り、二人での時間を積み上げて行った。くだらないことから真面目なことまで、色々な話をして、妻の新たな一面を多く発見した。そして改めて、この人と過ごせる人生を喜び、出会えたことに感謝する。

帰国後は、一緒にいる時間は少なくなってしまうだろう。子供や健康など、色々と不確定要素もあろう。だが、この人となら乗り越えられる、そう確信できるだけの信頼をお互いに得られたと思う。


交友と好奇心
c0131701_055433.jpgボストンでは、ボストン日本人研究者交流会の幹事として、リーダーシップの実践と交友の拡大を行えた。
幸運にも今年の活動指針が大当たりして、毎回通常の2倍ほどの参加者に恵まれている。お陰で数多くの人と知り合えたし、また自分の好奇心をどんどんと育てることができた。

また、他の幹事や参加者がどれくらい変化を許容できるのかを読みながら、少しずつ会を変えていったのだが、これはまさにハイフェッツ教授のリーダーシップ論の実践に外ならなかった。今のところは大成功なのだが、今年の残りがどうなるかはまだ予断ならない。

好奇心の重要性をつくづく感じるが、こと社会に出てからは仕事に忙殺され、好奇心を失い続けていた。この一年で数多くの講演の拝聴、旅、交友をする中で、本来持っていた好奇心を取り戻し、それをさらに成長させたと思う。他の人がどんな考え方を持っているのか、それは何故私のものと違うのか、違うことをどう捉えるべきか。聞くことと訊ねることの重要性を改めて知ると共に、学び考え生きるための原動力としての好奇心を育てることができた。せっかく取り戻したのだから、仕事に戻ってもこの好奇心を再び失うことのないようにしなければ。


2009年の抱負
c0131701_0345392.jpg2009年は、いよいよ卒業し社会へ戻ることになる。最後の学期は、社会復帰する準備をするとともに、将来の布石を打っていきたい。インプットをしつつアウトプットをする、知見を行動に移す実践をしていこうと思う。日暮れて道遠しと焦り逸る気もあるが、敢えてゆっくり歩み、自らの平衡を適度に保っていきたい。

学ぶものとしてはデザインを学びたいと思う。今後コンサルティングやその先で、組織や社会といったシステムをデザインする機会は多いだろうが、デザインとはそもそも何なのかを、少しでも知っておきたいと思う。

左脳的な分析や学問から得られるものは、大抵の場合、新たなシステムを設計するための制約条件やデザインルールでしかない。それを基に創造するためには、右脳的なデザイン能力・センスが不可欠だ。私は自分のことを本来右脳的人間だと思っているので(分析的思考は訓練で身に付けている)、それを伸ばしたい、という思いもある。

同時に、プロジェクトベースの授業を履修することで、分析と創造の統合、知見と実践の接合を行おうと思う。

そして仕事に復帰したら、ひとまず自分にできることをやり切り、やりたいことをやってしまおうと思う。出世など忘れて、自らの成長と充足を優先したい。出世しないという訳ではなく、出世欲という執着によって、自らに枷を嵌め、気が逸らされたくないのだ。世界観が広がったお陰で、役割や執着を相対的に見られるようになった、ということか。


泣いても笑っても卒業が迫っている。一日一日を充実させ続けたい。


*1 MBAのエッセイを父に見せたときに、「ふらうとは哲学を学んだことがあるのか」と言われたのは、こうしたモデルの欠如を感じ取ったのだろう。モデルを通じて学ぶ教育から、自らモデルを選択し作り上げていく職業に移るにあたって、適応が十分進んでいなかったのだろう。適応しなくても技術の習得だけで数年は持ち得るから

*2 性質が悪いのは、二元論が「理論的」「理性的」という評価を得易いがために、真理を直感的に把握している人を「非論理的」「浪花節的(?)」とレッテル貼りをしてしまうことだ

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by flauto_sloan | 2009-01-02 20:26 | Mens et Manus
幸せ - System Dynamics
システム・ダイナミックスの授業で、「幸せ(happiness)」について議論した。勿論、幸せを定量化するのは非常に難しい。人の幸福は健康、消費、家族や友人、周囲との比較、基本的欲求の充足、時間的変化率、等々多くの変数から成る関数だ。

その幸せを満たすべく人がどう行動し、その結果幸せはどう変化するのかをモデル化すると、非常に意義深い。

幸せになるメカニズム
授業では、以下のような構造を主に論じた。
より幸せになるには頑張って働く。働けば消費があがり、可処分所得が増えて消費が増え、消費欲求が満たされて幸せになる。

だが頑張って働くと、収入が増えると同時に評価が上がり昇進する。すると周囲の消費水準も上がり、消費欲求がエスカレートする。新たな欲求水準を満たすには、今まで以上に働かなければならい・・・ 「こまねずみ」の悪循環だ

また、働くほど仕事以外の時間が減り、休息したり家族や趣味に費やしたりする時間が減り、心身ともに疲弊していき、幸せが減ってしまう。この影響は時間の遅れを伴うため、気づいた頃には上記の悪循環に陥っている可能性がある。

そしてスターマン教授が最後に強調したのは、「奉仕・貢献」している実感の重要性だ。人は自分の行動が世の中の役に立っていると感じるとき、より幸せを感じる。同じ消費でも、人の為になっている消費のほうがより幸せを感じるという研究結果がある。そういった貢献に費やす時間が減ることも、幸せの増加を妨げている。
幸せと国民性
お金があれば幸せなのだろうか、という問を国民性と絡めると面白い。授業でも取り上げられた研究成果でNY Timesの記事にもなったもので、一人あたりGDPの絶対額が大きいほど幸福度が高いと結論付けたものがある*1

面白いのは、記事中のグラフで回帰曲線を引くと、その上側(収入以上に幸せを感じる)の国はラテン諸国が多く、下側(収入の割りに幸せを感じていない)の国は旧共産圏か、現状破綻している国々(ジンバブエなど)が多い。日本はその下側にある。

これだけで日本人の国民性や文化と幸せの関係を議論できるとは到底思わない。それでも何故だか考えて見ると、日本人が幸せを感じにくい要因としては、物質的・金銭的豊かさに対する幸せの相関の弱さ(或いは社会的に弱いべきだと信じられている)、極度の損失回避性向*2があるのではないかと思う。

いくらお金を儲けても、それで幸せと感じることに対して社会的な抵抗*3があり、翻って個人の感情にも「お金だけで幸せは買えない」という諦念や「お金で幸せを感じてはいけない」という義務感が生じているかもしれない。(まあ社会通念への感受性は低下していそうなので、今でもそうかはわからないが)

また、米国に住んで改めて感じるが、日本人は非常にリスクや損失に対して回避性向が大きい。徹底した品質水準、安全志向の資産ポートフォリオ、公務員・大企業志向などがいい例だ。これは、他国民以上に、損をした時に「感じる」損失が大きいのかもしれない。

この二つの仮説が正しいなら、経済成長で収入が増えても、日本人は幸せを増加することが少なく、何かのきっかけで損や不利益を被った場合の幸せの減少が大きい結果、他の国民ほど幸せになれなかったのかもしれない。

喜捨
他にも、収入の増加に比べて消費欲求水準のエスカレート度合いが非常に大きかった、或いは他人や社会に貢献する習慣や実績がなかった、ということも考えられる。前者は直感としてなさそうに感じるのだが、後者はあり得るかもしれない。

日本人は驚くほど寄付をしない*4。強度の損失回避が影響しているのだろうか。幸せになるためには、財布の中のなけなしのお金を、人のために使ったほうが良いかもしれない


そんなことを思いながら、その後のハーバードからの帰り道、いつも道行く人に声をかけ、お金を貰えなくても
"Have a good day"
と言い続けているホームレスに、少々だが恵んだ。彼の言葉はいつもと違い、
"God bless you!"
だった。偽善だろうとなんだろうと、確かにそう言われて少し幸せになった。

明日はThanksgivingだ。


*1 このNY Timesの記事は、日本が経済発展をしたにも関わらず幸福に思っていないという "Easterlin Paradox" を主軸に論じていて面白い
*2 行動経済学で、個人が感じる効用は、参照点よりも利益が増えた場合に比べ、同額減った場合の方が変化の絶対値は大きいとする(つまり、100万円利益が出るよりも、100万円損をした方が大きな変化だと感じる)。一般的に損失は利益の2倍程度に感じるというが、日本人ではこの差がもっと大きいのかもしれない
*3 ホリエモンや村上ファンドに対する社会の反発がよい例だろう
*4 金銭的余裕のなさは致し方ないが、寄付にまつわる胡散臭さも一つの阻害要因だ。詐欺まがいの寄付が少数でも目だって存在するため、正しい目的の寄付活動や、まっとうな非営利団体の寄付のお願いも単純に同一視されやすい。他にも宗教や習慣として喜捨が根付いていない(実際は托鉢も見かけるのだが)、個人よりも公共団体を通じた支援が望ましい、といった慣習が寄付の拡大を阻害している

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by flauto_sloan | 2008-11-26 05:56 | MITでの学び(MBA)
ボストン音楽談話 - 若き才能
某アマオケ*1でコンミス*2をしている友人の紹介で、ボストンで音楽活動をしている若き音楽家二人と、ビールを片手に日本のクラシック音楽界について熱く語り合った。音楽が文化・産業として成熟し成功しているボストンで活躍しているからこその、二人の日本のクラシック音楽界への問題意識と、何とかしたいという熱意がある。非常に学ぶものが多かった。オフレコも多かったので詳細は省略するが、彼らの問題意識は大きく、教育、経営、そして演奏にあった。

クオリティ・スタンダードを知るべき音楽教育
日本に決定的に欠けているのが、優れた音楽教育システムだという。ザンダーの講義でも実演があったが、欧米での音楽教育は可能性を引き出すことで、日本で一年かけたことが一瞬で学べることがある。尤も教師がいいだけでは不十分で、教育システム、多様な学生、学びの環境も重要な要素だ。

だが音楽の特性上、ただ仕組みを整備しただけでは不十分だ。本当の教育では、生徒の音がどう変わっていくのかを、経験として教師や学生に知らしめなければならない。定量化できない、教育のクオリティ・スタンダードを分からせないといけない。

だがそのためには、これまでの日本の音楽教育を支えてきた仕組みや既存の権威・信頼を揺るがさねばならない。これは大きな困難となろう。

助成金から脱却するオーケストラの経営
以前少し分析したのだが、日本のオーケストラは、一部を除いて自治体や親企業の助成金が主な収入源だ。助成金は依存し易いが、東京や大阪のように、知事の偏見裁量次第で突然支援を打ち切られることもあり、できる限り独自の収入源を模索しないといけない。

だが演奏会収入だけで成立することは欧米のオーケストラでもほぼ不可能だ。ホールの客席が限られ、チケットには相場感がある以上、BSOの集客力であってもチケット収入だけでは赤字だという。やはり寄付(特に個人)が非常に重要である。日本のオーケストラも、助成金から個人寄付へと中長期的にシフトしていくことが必要だ

だが日本は個人の寄付金市場が非常に未成熟だ。少ない寄付金市場を、ユニセフや国境なき医師団と奪い合うのが、正しいクラシック界のあり方なのだろうか。そうは思わない。クラシックへの寄付という文化を根付かせて、寄付金市場自体を増やすべきだろう。

では何故、日本人はクラシック音楽にお金をかけたがっていないのだろうか? その答えは演奏のクオリティにあると思う*3

日本人としての個性ある演奏を
日本人は本当は、クラシック音楽にお金を払うはずだと強く思う。
海外から来た一流オーケストラや歌劇場には、数万円を払って聴きにいく。CDを数百枚集める。アマチュア・オーケストラに参加して、毎週練習に参加する(金銭的出費はなくても、労働力や機会損失を考えると、かなりのコストを支払っている)。

では何故、プロの演奏家にお金が回らないか。詳細な検証が必要だが、恐らく日本のプロのオケを聴きにいっても、「この演奏には個人でお金を寄付していい」と思えるほどのクオリティになかなか達していないのだろう。それはプロ自身のレベルが不十分であるだけでなく、日本のアマオケのクオリティが高いためでもある*4

では日本のオーケストラが魅力的な音楽を奏でるにはどうすればよいか。勿論指揮者の技量は大きいが、それ以上に音楽家一人ひとりが、もっと日本の音楽を知ることが重要ではないか、というのが強い仮説だ。まず日本人として拠り所となる音楽がなければ、それとの相対として西洋音楽の良し悪しを理解できない。理解できないことには、オリジナリティを発揮できず、聴いた後に印象に残り、感動できるような演奏がなかなかできない。

また、クラシックは高尚だ芸術だ、といつまでも高いところにいないで、もっと聴衆を楽しませることを考えるべきだ。国を挙げてクラシック教育に注力したベネズエラは、世界一のユース・オーケストラを育て上げた。彼らの演奏は、クオリティが高いだけでなく、聴衆をとことん楽しませる魅力がある。ラテンと日本人の気質の違いはあれど、ひとつのカタチとして学ぶべきものは多いはずだ。


日本クラシック音楽界の未来
日本のクラシック界にはまだまだ構造的に改善すべきところが多い。だが一つ一つの問題解決がクラシック界の発展には必ずしも繋がらない。むしろ、日本人と日本というコンテキストの中で、どうやってクラシック界が成長できるのか、その好循環の構造を見出さねばならない。その為に必要な刺激と知恵を色々と得られた、実りある議論だった。

今後もボストンにいる間に何度も語り合うつもりであり、楽しみだ。

*1 アマチュア・オーケストラ
*2 コンサート・ミストレス
*3 寄付による税控除の度合いなど、技術的な問題は措いておく
*4 米国のアマオケは非常にレベルが低い。日本のアマオケのトッププレーヤーに相当する欧米のプレーヤーは、オケに所属しないフリーランサーとして活動する。フリーランサーであっても需要は多く、また演奏料が十分高いため、それだけで食べていける

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by flauto_sloan | 2008-11-06 23:18 | 音楽・芸術
因果関係
因果関係を把握するというのは難しい。難しいからこそ面白いのだが、因果関係の誤りというのはいたるところで見られる(私の文章にもきっとあるのだろう)

因果関係の難しさ
今学期履修している、MIT Sloanきっての名物授業、Sterman教授System Dynamicsでは、物事の裏に潜む因果関係の構造を把握し、効果的な打ち手を考える。だがこの因果関係というのが曲者だ。そもそも因果関係などない強弁だったり、相関関係と区別できなかったり、そもそも誤った事実認識を前提にしたり、と様々な誤りがある。

ただの強弁は、事実関係も因果関係も誤ったままの信念というようなものだが、道徳や感情・共感を絡ませると尤もらしく聴こえるから厄介だ。
教育者である父が昔よく嘆いていたが、『詰め込み教育をされると創造性が失くなる』という通念は、対偶を取りさえすれば、『創造性が高いなら、詰め込み教育をされていない*1』となり、流石におかしいと気付く。これが真なら、所謂詰め込み教育の時代、創造性ある日本人アーティストは正規の教育をきちんと受けていないことになる。


最も一般的な誤りは、相関関係を因果関係だと誤解することだろう(この相関と因果の誤解は、コアタームの統計の授業で回帰分析を学んだ時にも散々注意された)。最近読んで面白かった『ヤバい経済学(Freakonomics)』(レヴィット、ダブナー共著)に出てくる例だと、ある犯罪学者が「投獄率が高いとき犯罪発生率も高いから、投獄率を下げない限り犯罪は減らない」と主張したそうだ。牢獄を開け放し犯罪者を野に放てば、犯罪は減るらしい。

コンサルティングでも、相関関係から因果関係を意味合いとして出そうとするときは気をつけなければならない。意思決定に必要な精度での迅速な分析が求められるコンサルティングでは、学術的に因果関係を立証することは殆どない。だからこそ因果関係の推定は、多種多様なインタビュー、海千山千の上司や鋭い同僚との議論、何よりクライアントの経験からのフィードバックで補強するのが必要であり、それを怠ると牢獄開放を提言しかねない。


誤った事実認識を前提とした理由付けは、心理的なフレーミングやバイアス、あるいは認識の遅れなどで生じる。現状とは異なる状況を事実として思い込んでしまう。本当か、何故かという批判的精神や、データを押さえるという規律がないと、気付かない間に陥り易い。

例えば、「凶悪犯罪が増加しているから、警察が微罪事件に手が回っていない」という議論があるとする。これは、前提の「凶悪犯罪が増加している」が誤りであるため、結論は論理の堅固さ如何によらず誤りだ。

凶悪犯罪はもちろん、犯罪そのものが増加していないどころか、減少している。警視庁の統計によると、犯罪件数は2002年あたりをピークに、減少し続けている(犯罪総数、凶悪犯罪数共に)。司法関係者に聞いても、確かに犯罪は減っているとの実感があるという。

ここではなぜ日本で犯罪が減っているのかの考察はしないが(上記の『ヤバい経済学』の著者によると、アメリカの犯罪件数の減少は、中絶の容認が最も大きく寄与している)、なぜ犯罪減少という事実が認識されていないかについては、プロスペクト理論と、システムダイナミックスでいうperceptional delay(認識の遅れ)があるのだろう。

詳細は省くが、カーネマンとトヴェルスキーが創始したプロスペクト理論では、確率にも重み付けがあるとしている。その確率分布は心理学に基づくもので、数学的な確率とは異なり、ある事象が起きる確率pと起きない確率(1-p)を足しても、1より小さくなってしまう*2。感応度逓減性とあわせると、小さい確率は過大に、大きい確率は過少評価される。

平たく言うと、めったに起きない凶悪犯罪の件数は、主観的に実際よりも高い確率だと見積もり、頻繁に起きる駐車違反の件数は低く見積もってしまう。ニュースで見る頻度や、印象に残る度合いなどが背景にあろう。結果として、凶悪犯罪は実際よりも多いと思い込んでしまう。

また、凶悪犯は2004年まで確かに増えていた*3。だが自分で犯罪件数を調べたり、刑事・検事・弁護士・裁判官など犯罪に直接取り組む立場だったりしない限り、最新のデータや傾向は知らないのが普通だ。すると、記憶を辿って頭の中の古いデータを参照する。それは2004年以前の「凶悪犯罪が前年よりXX件増加し…」といったニュースかもしれない。その記憶を現状の正しいデータで上書きしない限り、その古いデータが今でも続いていると思い込み、それに基づいた判断をしてしまう。これが認識の遅れだ。

他にも要因はあろうが、これらが組み合わさった結果、「凶悪犯罪が増えている」という誤認が生まれる。これを防ぐには、「本当に増えているのか?」と疑問を呈し、信頼できるデータをあたってみなければならない。


学者にしろコンサルタントにしろ、およそプロフェッショナルであるならば、こうした事実に基づかない前提を使ってしまうのは致命傷だ。どんなに因果関係の論理が通っていても、いや論理が強固だからこそ、誤った前提から確実に誤った結論を出してしまう(在庫管理の「先入れ先出し(first in-first out)」になぞらえて「屑入れ屑出し(garbage in-garbage-out」という)。


このように、因果関係を事実認識まで含めて正しく把握するというのは、面白いが難しい。わかったつもり、知ったつもりにならないよう気をつけなければ。


*1 正確には、「創造性を失くす」の否定は「創造性が維持または増大される」だが、ここはレトリックとして「創造性が高い」、と書いておく
*2『行動経済学』(友野典男著、光文社新書)より
*3 凶悪犯罪の定義の変更などはひとまず置いておく

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by flauto_sloan | 2008-09-08 11:46 | MITでの学び(MBA)
夏の終わりに
3ヶ月の夏休みがついに終わる。恐らくこれだけ長い休みを妻と二人で送れるのは、もう定年までないだろう。やりたいことを色々とできた有意義な夏休みだった。振り返ると
  • 読んだ本は24冊
  • 旅に出たのはのべ40日余
  • 訪れた州は16州*1
  • 足を踏み入れた国立公園は10*2
佳書に多く恵まれ、素晴らしい友人と語らい、多くを見聞した。

旅を通じて見たもの
この機会に最もしたかったことが、アメリカという国をよりよく知ることだった。
アメリカはよく、東海岸、西海岸、中西部、五大湖周辺、南部という5つの文化圏に分けられる。まだまだ全てを回れてはいないのだが、気候風土、土壌や天然資源、地理的配置によってここまで文化や生活が異なり、それに従って人の考え方や姿勢も変わるというのが実感としてわかり始めてきた。

例えば、東海岸はやはり欧州に近い生活や嗜好を持ち、人口密度が高いためサービス業や学問が発展し易い。だが中西部へ行くと、広大だが砂漠ではない大地ゆえ牧畜中心であり、人口密度の低さから家庭教育が多く、保守的な姿勢になりやすい。

今後さらによく見たいのは、まず南部。米国に内在する貧困問題の中心地である。そして西海岸。まだ部分的に訪れただけで、シリコンバレーにも行っていない。友人もいるので、早く行かねば。

思索と反省
本をよむ時間が充分にあったので、幅広い考え方を学び、思索を深めることができたと思う。
本の選び方は、自分なりに体系立てて(NYの紀伊国屋でたまたま手に取ったものもあるが)、次の3つの問を自問し続けるための糧となるもの、とした。その問とは、
  • なぜ20世紀の終わりから物事の変化が激しく速くなったのか
  • そのような変化の時代にあって個人や組織は何を理解し何をしなければならないのか
  • 個人が必要なことを理解し行動に移すにはどうすればよいか
であった。

この3つの問のレベルをぐるぐると回りながら、自分なりの理解と仮説を深めていったのだが、それは一方で自分自身を振り返り見つめ直す(必要だが苦痛に満ちた)プロセスであった。

人生で3度ほど大きな失敗をしたのだが、その失敗の原因はどこにあったのか。改めて客観的に(自分を過度に責めずに)分析していくと、自分が思っていた程には自分は悪くなく、むしろ複合要因が悪循環で織り成した「失敗する仕組み」に嵌っていたのだと判る。

勿論、責任転嫁をしたのではない。失敗する仕組みを打破できなかったり、傷が浅いうちに仕組みを好転させたりできなかったのは自分に非がある。だが自ら能力を過小評価したり、性格性質を卑下したりするほどの非はないとわかった。


また自分にとって感動的だったのは、3つの問に答えるための考え方を学んでいくうちに、物理や化学といった、私が修士まで学んできたもの - そして就職後に捨て去ってしまったもの - が非常に重要だとわかったことだった。

微分方程式が解けるとか、統計力学を理解するという技術的なことではない。物理や化学といった体系が内包している思想のことである。体系は自然を抽象化しモデル化したものであり、人間社会を含めた自然界の基本構造パターンの一部(だが恐らく主要な一部)でありうる。ならば理系的思考法をどんどん社会の問題に適用してよいのだ、と分かったのだ。

還元主義に堕さず、システム思考を行う(平衡論・速度論の考えを掘り起こした)。ある論理やフレームワークを適用する際は、適用可能な前提を理解する。アノマリーがあれば前提を疑う。等々。

この気づきは、就職を境に自分の中で別個のものとして存在していた、理系的思考法とコンサルタント的思考法を止揚できるものだった。ようやく自分のキャリアが5年(就職後)ではなく15年(高校以降)となった。


さらに、自分の価値観が何に基づいているのか、何を美しいと思うのかを考えていくと、音楽に辿り着いた。最も愛情と熱情を以って打ち込めるものが音楽だった。

これまでも仕事が終わってからフルートを吹いたり*3、週末にオーケストラに参加したりして、自分の中のバランスを保ってきた。私にとって音楽は生命力の源泉なのだ。同時に、演奏や鑑賞から多くを学ばせてくれる教師でもある。


そうして、思索と反省を書物に書かれた知恵を糧に行っていくと、自分自身が客観的に見えてきた。自分というものを、責め過ぎず甘やかせ過ぎず、卑下し過ぎず過信せず、悲観せず楽観せずに捉えられるようになった。
もしかすると、これが中庸、というものを垣間見ているのだろうか…


そんな、夏だった。


*1 カナダ含む
*2 カナダ含む、モニュメントバレー除く
*3 幸い、職場のあった六本木には早朝まで営業している音楽スタジオがあった。12時から2時まで練習、なんてこともしばしばあった

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by flauto_sloan | 2008-09-01 12:25 | Mens et Manus
拠って立つもの
渡米して一年、ひたすらにインプットをし続け、それを咀嚼し、自分の経験や知識を分析し綜合し、それが自分の生にどんな意味があるのか、否、自分の生にはどんな意味があるのか、を問い続けている。

お陰で大分、昔のように頭が回転するようになったのだが、理論やフレームワークの類で自分を理性的に分析していくと、当然割り切れない何かが残る。この何かというのが厄介で、感情と言うのだろうか、コギトというのだろうか、妬みや諦め、自惚れや慈しみ、利己心や使命感、色々なものがない交ぜになっている。

その感情すらも、何故そんな感情を持つのか、と何故を繰り返していくと、薄々感づいている自分の弱さや過ちが見えてきてしまう。


自分がどのような人間でありたいのか。

目標をダ・ヴィンチのような全能者に据えてしまっていると、自分とのギャップしか見えてこない。そこまで行かなくても、周りで成功・活躍している人、頑張っている人を見ていると、安穏とした自分との差が見えてくる。

ギャップがあるならば、それを埋めるよう努力するか、ギャップをギャップのまま諦めるかが基本方針だ。自分は全能ではないし、体力精神力の個体差もあるので、結果として努力するものと諦めるものを峻別しなければならない。


だが、どうやって峻別したらいい? 何が判断基準となろうか。

金銭的・物質的豊かさ? 貧困撲滅のような人道的善行? 科学的真理の探求? 美学音楽的美しさ?

これこそが自分自身で選ばなければならない価値選択で、答えなどありはしまい。どれを選んでも、同じ判断基準を選んだ人の中では競争に晒され、異なる判断基準を持つ人には蔑まれるか羨ましがられるかだ。

哲学を学んでこなかったのが悔やまれる。宗教だろうと信念だろうと、一本筋を通して生きている人は強い。

これまでに私は、ふらふらとこれらの判断基準の間を中途半端に揺れ動いては、競争に疲れ、他者を妬み、一度捨てた他の選択肢を拾い直してきた。

フルーティストを諦め進学し、科学から離れビジネスに職を持ち、仕事をしつつも社会貢献に興味を持ち…

強いて良い所を挙げれば、一通り見てきた、ということか(人道的善行はまだ入り口だが)。ただこのままでは深みと熱さに欠けてしまう。


30は而立であって、もう迷ってはいられない。結局自分が本当に信じられるものは何なのか。捨てざるを得ないものはなんなのか。捨てるにしてもその喪失は減じられないか。

これまでの選択の経験から、学んだものはある。モラトリアム的選択肢ばかり選んでいて、含み損となっていた喪失を「損切り」するのが怖くて向き合えなかっただけだ。ようやく最近、向き合い、学びを抽出する覚悟ができてきた。

こうして厳しい問いを自分に投げ続けているのだが、心の奥の何かが、まだ泣きながら駄々をこねている。而立のタイミングでこの結論を出すための2年間があるのは、天佑だろう。

本当はどれを選択するのかもう決めているのだろうが、この駄々っ子が泣き止まないので、もう少し悩んでいたい。
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by flauto_sloan | 2008-07-17 05:54 | Mens et Manus
『知的生産の技術』とブログ
にも書いているが、このブログは、私個人の学びを目的に書いている。学ぶ(修めた学びを蔵し、蔵した学びを息す)にあたって、現時点でこの「ブログ」という媒体が非常に有効だと判ったからだ。

梅棹忠夫氏のロングセラー、『知的生産の技術』(岩波書店)は、知的生産活動に関わる個人が、如何に知識・情報を整理して学びに結び付けるかを、その必要性、目的・意義と共に方法論として展開した名著である。昨年MITメディアラボの石井先生の講演会で、石井先生がこの本を必読の書として挙げていたため、早々に読んで感銘を受けた。

書かれた当時と現在とでは技術の進歩が大きく異なるために、古いと感じられる主張(英文タイプライター時代であるが故の日本語ローマ字表記論など)もあるものの、『京大式カード』として商品化された、インプットをカードにアウトプットするというプロセスおよび整理法は時代を超えて有用だし、むしろ技術の介けを得て利便性が増した。

その新たな形態が、ブログだと考える。

ブログを書く理由・動機は人により様々だ。日記、社会貢献(またはその逆)、転職または採用のツール、情報の整理、商用、等々。私は知的生産のツールとして利用している。換言すれば、ブログの記事一つ一つを梅棹先生の提案した「カード」として取り扱っている


物理的な「カード」より優れた点は、構造化のし易さと分類・検索容易性だ。

トラックバックや記事間のリンクによって、ある時考えたことが後にどう発展したか、異なる経験が結びついてどのような考えを醸成したか、といった知識と見識との間の構造化が簡単にできる。

タグやカテゴリによる分類は、雑多な考えの羅列から、一歩引いた見識を構成する際にとても役に立つ。ただし梅棹論にあるように、始めから整理した分類をするつもりはないので、タグやカテゴリ自体時折見直して括り直している。

また、後から経験や自分の考えを振り返りたいとき、検索をすればすぐにその時の記事が出てくる。

(ブログの記事は「カード」なので、公開したくない、あるいは公開が憚られるカードも多く存在する。そんなものは非公開設定にしている。実は自分の整理のための非公開記事は結構多い)


一方で、やはり紙にかなわないものも多い。読み安さ、簡便さといったものもあるが、何より紙上では二次元で考えの広がりを自由にできる。従って、全ての学びをデジタル化することはなく、紙で残す学びは多い。そんな時、このブログは「カード」として、その紙を参照する時のナビゲーター役をする。

私は絵や図で二次元(或いは三次元)に自由に考えを構造化しつつ書いていき、徐々に深めていくタイプだ。だから何か思いつきたいとき、或いは授業や学問の全体観を理解したいときは、まず紙に色々と書き散らしながら試行錯誤し整理していく。PCではそうはいかない。パワーポイントで似たようなことができるとはいえ、スピード、自由度と細やかさが全然異なる*1,*2

このあたりを、共同作業の効果と効率と絡めて、メディアラボを始めとして世界中の様々な研究者が取り組んでいるのだが、一般人レベルではやはり紙が一番安くて有効だ。


人の知的活動がリアルである以上、リアルとバーチャルの並存は止むを得ない。このブログを現時点で最大限利用しても、紙はいつまでも残る。後でそのまとめシートを参照するときのために、ブログの記事でポイントを書いて残している。


そういった限界を知りつつも、知的活動の手段としてブログは非常に有効で魅力的だ(まあ音楽記事などは殆ど日記に過ぎないが)。自分の学びを遺し深めるという利己的な目的意識が、忙しくもブログを書き続けている動機*3となっている。現在における「知的生産の技術」としてブログを利用することをお勧めする。

(なお、勝間さんの本は未読なのだが、同じような論点なのだろう)


*1 人類は手を使うことで脳を活性化・成長させるという説もあるので、手書きによって考えや理解が深まるのは強ち嘘ではないだろう
*2 ビジネスにおける知的生産活動の一翼たるコンサルティングの職場でも、手書きに拘る人は結構多い。結局その方が早くよいアイディアが生まれるということの一つの証左といえよう
*3 同時に、記事によって非公開にしたり、過去の記事を振り返り改変したりという偏狭な活動の理由でもある

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by flauto_sloan | 2008-07-12 03:15 | 学びの技術
佳書
「佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体裁を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります」(安岡正篤一日一言より)

ここのところ、幸運にも佳書に巡り合い続けている。

過去の失敗や自分の内面を振り返り、革むるべき処と、責めざるべき処、反省すべき処と、自信を取り戻すべき処を峻別できた。

心が生き返ってゆく。

もうすぐ31年を迎える人生で、何年間足踏みや遠回りをしたのか判らない。それが無駄でなかった、などという甘えたこともいうつもりは毛頭無い。だが、それらを全て受け入れるための心構えと勇気が湧いた。

その感動すべき瞬間、ニューヨークからの帰路の夜道は忘れまい。
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by flauto_sloan | 2008-06-24 13:18 | Mens et Manus
MIT卒業式 - Change the world
先日、MITの卒業式が行われ、私は寮でMIT Channelにてテレビで見ていた。卒業式でのスピーチは、ノーベル平和賞受賞者のMuhammad Yunus氏であり、非常に素晴らしい内容だった。

ユヌス氏については、多くを語るまでも無いだろう。バングラディッシュで貧民向けの銀行、グラミン銀行を設立し、マイクロクレディットの手法を作り上げ、多くの人々に自信と経済力を与え続けている偉大な社会起業家だ。

MITのサイトに音声付きでそのスピーチが収録されているので、是非聴いて(読んで)頂きたい。以下要旨
"従来のビジネスは資本主義経済の枠組みの中で動いており、そこでの目的は利益を最大化することにある。私は利益を最大化しようとしていないが、私のビジネスは私に幸せを与えてくれる。「ビジネス」は資本主義の枠組みという、余りに狭く一面的な意味に押し込められてしまっている。

人間は多面的な視点を持つはずだ。我々が世界で直面している問題は、利益最大化のレンズでは見えてこない。多面的な考えを持つ、本当の人間がビジネスから得られる幸せは、「利益の最大化」だけでなく、「広く認められた社会的意義の達成」にもある。だからビジネスにも、利益追求事業と社会事業とがあるべきだ。

あなた方の世代は世界を革新することができ、一人一人は世界を変える力がある。一生で何か一つは、あなたが最も心を痛める問題を解決するための、社会事業に関わることをして欲しい。もしあなたに(新しい社会的事業の)デザインと資金があれば、行動に移して欲しい。もしお金が無いだけなら、MITの学部長に話せばいい。

貧困は貧しいから在るのではなく、(資本主義社会の)仕組みにより人々に降りかかったのであり、貧しい人と恵まれた人との間に何の違いも無い。この仕組みを変えることは難しく、手を拱いていては手遅れになるが、3つの基本的な試みが大きな成果を出すだろう。

1) "social business"を市場原理に組み込んだビジネスを広めること、2) 全ての人に経済およびヘルスケアのサービスを行き届かせること、そして 3) 誰にでも利用可能なITをいきわたらせることである。

問題が非常に大きく見えても、簡単な小さな部分から解決していけば、面白いように大きな問題を解決していくことが出来る。正しいやり方でさえあれば、すぐに世界を動かせる。

あなたたちの前にある大きな二つの使命は、この世界から貧困を撲滅することと、人の無関心と利己心が傷つけた地球環境を修復するために、世界を正しい方向に向かわせることだ。

おめでとう、あなたたちは素晴らしい可能性に溢れる世代に生まれた。そして前もっておめでとうと言っておこう。あなたたちによって、この星のすべての人が人間らしく生きられる世界が創造されることに。"

社会主義を打ち倒し、この世の経済を独占している資本主義が、唯一のビジネスの評価軸だと捉えられるのは自然だ。ビジネスが資本主義の中で動いていると信じている限り、あらゆることをお金(利益)に落とし込み、NPVが正か負かで良し悪しを判断すればよい。

だが利益という単一軸に世の中の事象を捨象しようとすれば、多くのものは見えなくなる。ユヌス氏の言う「社会的意義の達成」、あるいは更に他の視点を持つことで、ようやく正しいバランスの取れた事象が見えてくるのだろう。


幸いにも私の卒業は来年なのだが、卒業後にどのような信条を持つべきか、改めて大きく考えさせられる。どうも資本主義をそこまで信奉できず、信じ込もうという割り切りも気持ちが悪い。文芸家や漫画家の一族に生まれ、音楽家や化学者を志したからだろうか。だが信じなければプロフェッショナルとしての強さは生まれない。

では資本主義を受け入れ、極め、その後にもう一軸を広げるか(ビル・ゲイツのように)、最初から2次元、3次元で複雑さの罠に陥るか、あるいはそれを克服してユヌス氏のようになる強さを自ら作り上げるか。

残り一年はそれを見つけるのに短いのだろうか。来年の今頃にこのブログに書く気持ちは、疑問が疑問のままに残る時間切れの感覚だろうか。

この一年で大分エネルギーが蓄えられたように思う。引き続き、ゆっくりと、だが精力的に経験し、考えていきたい。
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by flauto_sloan | 2008-06-22 15:48 | Guest Speakers
100K Business Plan Contest
MIT全学を挙げての一大イベント、100K Business Plan Contest が行われた。起業家の使命に社会的責任が求められるようになっていると感じる結果だった。

MITでは、学内で生まれる様々な新技術を用いての起業が盛んである。音響機器メーカーのBOSEはボーズ教授が自分の音響理論を実践するスピーカーを作るために設立された。当然教授だけでなく学生にも自分の技術やアイディアで起業しようと言うエネルギーを持った人に溢れていて、そんな彼らが活躍するのが、この100K である。

このコンテストではその名の通り、学生チームが新たなビジネスプランを生み出し、その新規性や事業性を競い合い、優勝チームには$100,000が与えられる。数年前まで10Kだったのだが、最近賞金が10倍になった。また、今年からバイオ、モバイル、航空など部門別に選抜が行われるようになり、より専門的なエッジの効いたアイディアへと磨かれるようになった。

スローンのMBA生は、エンジニアリングPh.D生のアイディアを上手くビジネスプランに落とし込み、短時間で魅力的にプレゼンテーションすることで貢献することが多い。ファイナリストにはクラスメートで元同僚のIB君がいて、携帯を使った室内位置補足システムを熱く紹介していた。日本人ではShintaroが参加してセミファイナリストとなり、実際にVCや弁護士にビジネスプランを叩かれ磨かれ、多くを学んだらしい。

優勝したのは、発展途上国の貧困地域での公衆衛生向上に貢献する新商品だった。物資も施設もなく、健康状況がわからない多くの子供を簡便に診断するためのキットで、プレゼンテーションを見ていて非常に感銘を受けた。そしてやはり優勝していた。

ただこれが他のアイディアよりもビジネスとして大きな規模になるかというとそこは疑問である。企業の社会責任を考えることが昨今非常に重要になり、HBSポーター教授の一大テーマでもあるが、起業家にもいかに金儲けするかではなく、いかに社会的使命を果たすかが求められてきているのだろう。

実際、ファイナリストに残ったアイディアの大半は、単なる消費者の不便さを解消するだけではなく、なにか社会的な課題(戦時における負傷兵の帰還支援、代替エネルギーの効率化など)に寄与している。非常に見ごたえのあるプレゼンテーションだった。
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by flauto_sloan | 2008-05-14 23:13 | MITでの学び(非MBA)