MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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最後のボストン日本人研究者交流会
c0131701_14283659.jpg本来は前回で終わりだったはずの研究者交流会だが、ボーゲル塾の同門の熱い官僚と熱い元体育教師の熱意に打たれ、「夏の増刊号」と題して最後の交流会を行った。

人によっては夏休みだったにもかかわらず、80人以上の大入りで質疑応答も活発で、最後に相応しい会だった。

また今回で幹事を引退する私に、他の幹事の方々が労いをしてくれ、恥ずかしながら感動してしまった。ボストンで一番オーナーシップを持ったコミュニティを去るのは寂しいが、皆で暖かく送り出してくれたのはこの上なく嬉しい。

なお、今回から研究者交流会のブログが立ち上がり、そこに要旨が掲載される。詳細はそちらを参照されたい。

日本のエネルギー政策
最初の発表は、ボーゲル塾で幹事をしてくれたケネディスクールの友人によるもので、日本のエネルギー政策についてだった。経産省の経験からの発表であり、日本の政策の不易流行がわかって面白い。

大学では化学を専攻していたので、昔から資源・エネルギー問題は興味を持っていた。1970年代の『成長の限界』の頃から、人口が増大し資源が枯渇することは言われ、政府も太陽光発電など代替エネルギーを推進してきたものの、なかなか思い通りには規模が拡大していない。10年以上前の授業で教授が、「エネルギーはもうじき枯渇する」というのを様々なデータを用いて講義した時には、そら恐ろしくなって子孫は作るまいと思ったものだ。

20世紀に入って、いま米国は驚くほどのエネルギーブームである。オバマ大統領が代替エネルギーの開発を進めると決断したことも後押しして、頭脳も資金もエネルギー産業へ流れ込んでいる。良くも悪くも、いまやバブルかと思うほどに熱い分野だ。

日本は以前から環境技術は進んでいたが、技術分野によってはアメリカに一気に抜き去られてしまうかもしれない。対抗するには、日本政府の本腰を入れた施策が必要だ。話を聞いていると、これまでは掛け声的だった新エネルギー開発が、ようやく本気になってきたようだ。

だが当面は原子力やその先の高速増殖炉が有望なエネルギー源だ。アメリカでも原子力の見直しはかなり進んでいる。ただ、日米とも原子力発電所や、さらに最終処分場の建設に関しては地元の反対運動が付き物である。住民の理解を得ることは不可欠だが、時間切れによる機会損失・国力低下や、その他の悪影響が顕著になるまで待っていても仕方がない。だが苦渋の決断を下せるリーダーは、今の日本の構造ではなかなか生まれそうにない。悲しいかな、また茹で蛙になるのだろう。


Teach for America
今年の交流会最後の発表は、夏男さんらによる "Teach for Japan の可能性" についてだった。さすがに日本の教育現場を知り、アメリカの教育現場を精力的に見てきた夏男さんだけあり、また彼一流のユーモアも素晴らしく、聴衆はぐいぐい惹き込まれた。

日本の教育は何かがうまくいっていない、とは誰もが感じている。だが何が問題であり、どんなアプローチがありうるのかは、なかなかちゃんと理解できていない。

アメリカで成功している "Teach for America" のアプローチを日本に取り入れることで、草の根的に日本の教育を変えていこうと夏男さんは考えている。Teach For America は、ハーバードやイェールの学生が、卒業後すぐに2年間を教育現場で費やし、教育について知り、また問題のある地域の教育を改善していくプログラムだ。マッキンゼーやグーグルなど、一流企業はTFAとパートナーシップを組んでいて、採用した学生がここで2年間教師として働いたあとに就職することを認めている。


夏男さんも言っていたが、日本企業の新卒志向など、TFJをそのまま導入した場合には、色々な問題が予見される。彼はそれを踏まえた上で、日本流のプログラムを考えている。だが、日米の問題の違い、また危機意識の温度差をよく考えることは必要だと感じた。

コンサルティングの経験からしても、打ち手の輸入は得てしてうまくいかない。国や文化が異なると、解くべき本当の問題が異なる。問題が異なれば、同じ打ち手でその問題は解けない。

アメリカの教育格差は既に大きく開いており、階層が事実上固定化されている。また問題地域の教育は崩壊しており、学校で麻薬の密売が行われているところもあるという。そこへ必要なのは、現場で問題解決を行える、優秀で熱意溢れる人材だ。だからこそTFAが成功している。また、既に大きい教育格差という危機意識が、アメリカの優秀な若者を教育へと駆り立てている。

だが日本はまだ、そこまで問題が集約されておらず、また危機意識も低いように思える。だからこそ悪化する前に手を打たねばならないし、見る前に飛ぶ人がいない限り何も進まないのだが、今のままではTFJで本当の問題が解けずに空回りしたり、教師・生徒・保護者の支持が十分に得られない可能性がある。

とはいえ、行動なしに問題を明るみに出すことも、モメンタムを作ることもできないので、TFJのアプローチは大きな意味があるだろう。実証済みのアプローチとしてのTFAを輸入することで、最終的には変革の流れを作ることはできるだろう。

だがそれだけでは不十分で、同時に機を熟させることも重要だと思う。それには感動と挑発が必要で、Rookiesのような感動的な教育ドラマ(私も妻も見入ってしまった)で、熱意と能力を持った教師がコミュニティを変える力を持っていると訴えることと、教育問題がいかに根深く、次の世代が貧しくなる可能性を秘めているかを過激に訴えることの両方が必要だろう。ただし文科省の批判をしても意味がなく、教師・生徒・保護者が自分自身の問題として意識するように仕向ける必要がある。誰かを指差して文句をいい批判し、誰かが何とかするだろうと期待し受身でいるだけでは、その誰かは結局現れない。

さじ加減は難しいが、TFJがひとたび上手くいけば、素晴らしい好循環が生まれる可能性を秘めている。自分の子供が小学校にあがる頃、日本の教育はどうなっているだろうか。


幹事の引退
今回を以って、正式に幹事を退いた。最後に他の幹事からプレゼントと、常連参加者の寄せ書きを頂いた。思いもよらなかったサプライズイベントで、今までの人知れぬ苦労(?)や思い出が甦り、胸が熱くなる。幹事冥利に尽きる。大きなトラブルなく運営できたのも、他の素晴らしい幹事の方々、そして参加者・発表者の方々のお蔭だ。

懇親会では多くの人に労って頂いた。卒業直前であり、ここで会うのが最後の人も多いだろう。思い上がりではあるが、自分の送別会のような気がしてきて、非常に寂しくなった。だが、ここで出会えた人たちや学んだことは、大きな成長の糧となった。こんな素晴らしい機会を与えてくれたボストン研究者交流会。幹事をして本当によかった、と心から思う。
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by flauto_Sloan | 2009-05-30 14:03 | ボストンでの生活
医療訴訟
今月のボストン日本人研究者交流会は、さいたま地裁医療集中部の裁判官をお呼びして、医療訴訟について発表していただいた。ボストンは医療機関が多いので、日本人のお医者様も多く、かねがねから医療訴訟についての関心は高かった。医学・法学ともに参加者が多く、関心の高さと問題意識から、活発な意見交換が行われた、実りある回だった。

法の専門家であって医療の専門家ではない裁判官が、医療過誤訴訟などの医療裁判でどうやって正しい判断をしていくのか。現在行っている取り組みや、今後の課題を、日米の制度の比較も含めて紹介していた。会場のお医者様の中には、実際に参考意見を述べたことがあるなど、裁判に関わった方もいて、率直な意見が飛び交った。
医療裁判で判断となる材料は、過失と結果の因果関係であり、そこに専門的知見を取り入れるために、カルテ・文献調査、担当医への聞き取りの他、協力医や鑑定人の鑑定書や証言を利用している。そのため、2007年度で平均的な民事事件では7.8ヶ月かかる審理が、医療裁判では短縮傾向にあってもまだ23.6ヶ月かかっている。鑑定を実施する場合は52ヶ月もかかる。また、判決にまで至るものは全体の35%であり(残りは和解や取り下げなど)、そのうち37.8%で原告が勝訴している。

時間がかかる最大の要因は、医師(協力医)の確保の難しさと、その医師の忙しさとなっている。地裁レベルでは、地元医師会との協力体制を整えたり、候補者リストを作成したりと、審理短縮化への取り組みを行っているが、全国的に組織立った制度はまだ十分ではない。

また、専門性と中立性・公平性のバランスを取ることは難しい。専門的意見を取り入れることは判断の正しさを担保するために重要だ。だが一方で原告としては、裁判官が医療界と距離があることを訴訟のメリットと考えている。
2004年に医療関連の訴訟数がピークを迎えた後に、減少傾向に転じたのは、裁判の結果が出始めて判決の相場がわかってきたもで、原告側が勝てないものを訴えないようになったためだと考えられる。これは実際の裁判を通じて、専門性と公平性のバランス感覚が裁判所に備わってきていることも示唆する。
だがこのバランスに正解はなく、むしろ社会や患者のニーズに応じて、医療訴訟以外の選択肢を広げるための制度作りも進めていくことが有効だ。たとえば、過失の有無に関わらず補償する制度や(副作用・産科など)、ADRといった制度の役割は増していくだろう。

裁判が全てではない。真摯に謝りたいと思っている医者も、裁判だと患者やその家族に対し厳しい言葉を使わねばならないことがある。医者も裁判にかけられると時間を取られ、判決に関わらずキャリアに変化が訪れることもある。多様な選択肢は医者と患者双方に便益があり、裁判所も鑑定人リストの共有などで支援していくことが重要であろう。

今回は民事の医療訴訟についてだったが、質疑応答では千葉大法学部の先生で刑事の医療訴訟を研究している方がいたこともあり、刑事事件についても熱い議論が交わされた。医療現場が気にするのは、どちらかと言えば民事訴訟よりも刑事訴訟だからだ。

特に福島の大野病院事件は、色々ときな臭い話も相俟って、医療現場に大きな心理的ダメージを与えていた。昨夏に地裁判決で医師の無罪が言い渡されて、医療崩壊のさらなる加速は一旦遅まったが、もはや萎縮医療や医療崩壊は避けられないだろう。

だが大きな司法判断として刑事事件は注目されるが、医師の日々のリスクとしては民事訴訟のリスクがつきまとう。医療サービスにチェック・アンド・バランスは必要だとしても、医者が最善を尽くした上での不幸な結果に対して、アメリカのように乱訴が行われては、ますます萎縮が進むだろう。

100%の無欠を志向する国民性は、製造業の品質向上や工芸品の美しさには貢献したが、サービスにおいては、対価を求めない品質改善が結果的に顧客の期待値を高め続けた。100%の品質を学習してしまった、あるいはそれしか知らない人々は、少しのミスや失敗も許容しない。さらに、お上に任せれば安心という主体性なき依存心と、失敗に対する懲罰意識の高さとが重なり、結果的に顧客に尽くしたサービス業がモンスターXXといった人々を生み出し、皆で自分の首を絞めている。

それがまず顕著に現れたのが医療現場であり、続いて教育現場やITサービス、果てはクリーニング店にまで、品質や対価が不明確なサービス業を中心に、同じ構造の現象が起きている。高すぎる期待値と、失敗に対する顧客によるクレーム・懲罰・訴訟増加(モンスター化)、そのリスク回避のための萎縮サービスや現場の士気低下・人材流出。その結果、最初は自然誤差だった失敗をトリガーにした悪循環が回り始め、品質が本当に下がっていってしまう。

この悪循環を断ち切る方法は、事情によって異なる。何もしなくても、時間がある程度解決はする。人々が「100%の品質はもう得られない」と学習して、期待値を下げるからだ。出産には死の危険が伴う、クリーニングに出せばシャツのボタンが溶けることがある、という二十年前なら当たり前だったことを、常識として受け入れれば、世の中の不幸は増えるが、不満は軽減される。

医療の場合は、先に医療訴訟の相場観が生まれてきている。「このケースでは勝てない」という基準を社会および司法関係者が学習していくことによって、やがて「このケースは医師に過失がない」、「医療には限界があり、結果責任はとれない」と学習していくこと期待したい。

あるいはITの世界でよくあるように、サービスレベルを設定し、高品質には高い値段を(そして低価格には低品質を)設定しなければならない。公立校と私立進学校の差や、自由診療もこのケースだ。ただし、サービスの売り手と買い手双方に教育が必要であり、それはそれで時間がかかる。また、よく言われる「医は仁術」という言葉は、医者は採算度外視で患者に尽くすべきだ、という誤解された意味でまかり通ってしまっている*。こんな誤解が蔓延する日本に、どこまで馴染むのか疑問だ。


結局、医療の質はバブルだったのかもしれない。現場の医師が寝ずに頑張り続けて、本来維持可能な品質レベルを超えたサービスを提供し続けてきた。だが維持可能なレベルと実際のレベルがあまりに乖離しすぎて、医療品質バブルが弾けたのだろう。株価や地価のようなわかりやすい数字が医療の品質にはないため、バブルという実感が医師患者双方になかったし、バブルが弾けたときにもその影響がわからなかった。萎縮、とはバブルの破裂のことなのだ。

金融危機が訪れても、アメリカ人が本来あるべき地価は下落後の今よりも高いはずだと考えているように(100年間の実質地価推移を見ると、現在の地価でもまだ「本来の」地価よりも高い可能性がある)、医療崩壊が訪れても、日本人は当面、本来の医療の質は崩壊前のレベルだと考え続けるだろう。今は膨れ上がった期待を本来のものへ引き下げるという、痛みを伴い、誰かを訴えて自分の責任を軽くしたいフェーズにある。それが民事刑事の医療関連訴訟の増加であり、マスコミの客観性を欠いた医者・厚労省叩きであろう。

だが再度手に入れられる可能性のある金や家と違って、健康や命は取り戻せない。医療品質バブルに伴う損失は大きく、引き起こされる感情的抵抗は激しい。まずは発表であがったような行動できる選択肢の多様化、原因解明を可能にする制度、現場の透明性確保、原告・被告への心理カウンセリングといった、当事者が「納得するためのプロセス」を整備しないといけないだろう。

* 安岡正篤翁曰く「仁というのは、自然(天)が万物を創造し化育していく、いわゆる天地の生の徳、生み成していく生産、結びである。『医は仁術なり』というと、仁の本当の意味がわからない医者が嫌がる。ただで診てやるという意味ではなく、患者の病気を治す、健康にしてやるという意味なんであります。いくらただで診てやったとしても、殺してしまったのでは仁にならん。謝礼を取る取らないという問題ではなく、患者を哀れんで助けるというのが仁術という本当の意味であります」
(安岡正篤著 『指導者の条件』 黙出版 pp.150)
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by flauto_Sloan | 2009-05-09 23:53 | ボストンでの生活
安全保障と科学技術
c0131701_13654100.jpg今回のボストン日本人研究者交流会では、早稲田大学教授でハーバードの客員研究員でボストンに滞在している、山本武彦教授をお迎えし、『東アジアにおける科学技術活動のもつ安全保障上の意味』と題して発表していただいた。
ちょうど北朝鮮のミサイル発射を控え、安全保障への意識が高まっている時である。
MITとハーバードを擁するボストンらしく、日本とアメリカにおける科学技術と安全保障の関わりの違いについての見識は、非常に興味深かった。講演要旨は以下のようなものだった。
科学技術は、MITのSkolnikoffが論じるように、国家のバリューの源泉である*1。各国家は比較優位性を保ち、増進させるような科学技術政策を採ってきた(日本の第5次半導体計画など)。そうした科学技術を軸として生き残りをかけた戦略は、
地戦略(geo-strategy)=地政学(geo-politics)+地経学(geo-economics)
として定式化できる。

ここで決定的に重要な(critical)軍事などの科学技術は、自国のみならず敵対国家・勢力にも利益を与える可能性がある*2。そのため、国は技術を囲い込み、移転に対して規制をかける。だが頭脳流出やみなし輸出を完全に失くすのは非常に難しい取り組みである。

だが、何をcritical technologyとするかでは、軍事と民生の技術の境界が曖昧になって来ているために、判断が難しくなっている。米国は軍事技術からスピンオフして民生技術に転用し、軍産複合体を作り上げてきたが(インターネット、GPS等々)、日本は軍隊を持たないために民生技術が発達し、それがスピンオンとして軍事技術に転用された(ステルス戦闘機の素材等)。

それゆえ、日本の民間企業が海外資本に買収されようとする際は、そこの技術が軍事転用可能かどうかを判断しなければならないし*3、東芝COCOM事件のように先端技術製品の輸出でも考慮しなければならない。特に近年軍事力を急速に増強している中国は、日米両国の軍事・民生技術を収集しており、スピンオフ・オン双方の利益を取り入れようとしている。

Critical Technologyは移転を抑止しなければならないが、環境改善や人間に資する利益(準公共財)は規制を無くしていかねばならない。頭脳流出を規制しようにも、行き過ぎればイノベーションを妨げかねない。あくまで「より少ない対象に、より高い壁」を設けるバランスが重要だ。

日本にだけいて、ハイテク技術を見ていると、つい軍事視点が完全に欠落してしまう。アメリカでは当然軍事産業が非常に大きいので(ガルブレイスも『悪意なき欺瞞』で告発していた)、当然考慮している技術観だ。日本に軍事産業がない、というか意識されていないことは機会損失であり、現実の一側面しか見ていないことになり兼ねない。

そのアメリカでは、シリコンバレーやボストンの開放的で革新的な環境と、critical technologyの移転抑止による安全保障はトレードオフにあるため、9/11を経て経済が悪化すると、今後移転抑止へ傾斜して開放性が犠牲になってしまうこともありうる。米国の成長を取り戻すために、イノベーションは不可欠であろうが、保護主義で閉鎖的になりつつある米国は、このトレードオフを逆に押し戻すかもしれない。そうした時、新たな開放的環境を提供するのは、インドであろうか。

日本はスピンオンすべき優れた技術を持っていながら、開放性に欠け、しかも移転抑止が不十分である日本。今蓄積している技術も、インプットがなければやがて他国に抜かれてしまうし、頭脳流出でアウトフローが増したら、尚のこと競争力を失う。日本としての地戦略を、省庁の垣根を越えてしっかりと策定して欲しいし、それができるリーダー(リーダーシップと言う点では小泉首相並の)が必要だと、切に思う。

それにしても、山本先生は非常に話が面白く、そして勿論洞察深く、会場は常に笑いと感嘆の声に包まれていた。楽しくも学びの深い講演だった。


*1 米国政府が支援した核や航空の技術は、冷戦時の国力増進に大きく寄与した
*2 日本に向けられた北朝鮮のミサイルが、9割の部品が日本製だという話は、まさにこれを示している
*3 日本で実際にあった例が紹介されたが、食品メーカーの技術がミサイル製造の中核技術に転用可能であったため、外資買収に対して敏感に反応し、結局日本の同業メーカーが吸収した例があった。また、Jパワーの買収案件の時には、法改正までして買収を阻止した。勿論、ならば何故上場をするのかという問題を孕む

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by flauto_sloan | 2009-03-14 22:07 | Guest Speakers
拍: 音楽と心臓
今月のボストン日本人研究者交流会は、ハーバード大学の音楽学部に留学中の桐朋音大の先生と、心臓幹細胞の研究をしている先生(高校の先輩でもある)のお二人に発表して頂いた。どちらも素晴らしい発表だったのだが、個人的な興味と相まって音楽学は特に面白かった。

音楽と向き合う
音楽という、どこにでも溢れているものを学問する音楽学。一演奏者として、漠然と感じていたものを色々と体系立てて説明され、気づきが非常におおきかった。以下に要点。
音楽学とは、音楽に関する学問の総称である。音楽そのものを扱うが、音楽の美しさを解明することはできず*1、音楽の価値は扱えず、さらに音楽に奉仕するとは限らない。

音楽学の従来の研究領域は、楽譜の発掘・真贋分析、作曲家や曲の分析であったが、近年は聴覚文化一般に対象が広がっている。作曲家の分析も、かつては作曲家とその周辺ばかりを研究していたが、近年は巨視的・社会的な視点で分析を行い、新しい知見を得られている
    例えばモーツァルトは、晩年人気が衰え、巨額の借金を抱えて貧しいままに亡くなり、共同墓地に埋葬されたとされていた。だが当時の出来事をしっかり分析すると別のモーツァルトの晩年が見えてくる。

    人気が衰えたのではなく父の死により成功談が書簡として残らなくなったのであり、借金の証文が文献として偏って目立つようになった。また露土戦争へのオーストリア参戦により、パトロンであったウィーンの貴族が所領に戻ってしまい、またウィーンの貴族も戦費が嵩んで音楽にお金をかけられなくなったことが直接の収入減の理由であり、天才故に理解されなくなった訳でもない。葬儀も、皇帝の勅令により、貴族以外は一時的に共同墓地に埋葬することになったためであり、貧富とは関係がない。寧ろ巨額の借金ができたことは信用があったことを示す。

    すると、実はモーツァルトは晩年まで裕福だった可能性が高い、と今は考えられている。
音楽は時間を伴うため、どう記録するのかが昔から重要な問題だった。「口述→筆記→録音」という歴史的変遷を経たが、それに伴い楽譜も「記録メモ→演奏マニュアル→演奏を採譜したもの」と変遷した。楽譜は当初口伝の補助として、宗教音楽という普遍的な音楽の覚書に使われ、パート譜としてのみ存在した。やがてスコア(総譜)が発明されると、音楽全体を設計できるようになったが、バロックやロココ時代の演奏における暗黙の前提は「書くまでもないこと」として楽譜には残っていない。それをわかった上で演奏するマニュアルだった。時代を下りウェーベルンの頃になると、作曲家が全ての音に表情をつけるようになり、演奏そのものを書き表すようになった。

楽譜はあくまで不完全であるから、楽譜テキスト・演奏慣習・個人の解釈をバランスをとることが重要であり、その結果として演奏解釈の多様性が生まれる。テキストは記号でしかなく、言語化されていない演奏慣習を理解・表現しないことには意味がない。そのためには様々な音楽を聴かねばならない。
モーツァルトの例は、ある現象を Inside-out で分析するか、Outside-in でシステマティックに分析するのかの違いが際立っていて面白い。音楽というと、こと内面的なものが重要だと思われ易いのだろうが、時代背景といった外部要因がシステマティックに作曲家やその内面に影響していると考えると、伝説や崇拝を超え、音楽の本来の姿が見えてくるのだろう。

また、演奏に当たっての三要件が楽譜テキスト、演奏慣習、個人の解釈であるというのは非常に納得がいった。これまで古楽演奏*2にも随分参加したが、まさに当時の演奏慣習を理解することが練習のほとんどだった。それ抜きの個人の解釈は滑稽だからだ。

だが一方で、こと訓詁学の文化が長い(?)日本では、CDによる録音された演奏を、演奏慣習と個人の解釈とを分離しないままに(そして良し悪しと好き嫌いをも混同して)、この曲はこう演奏されるべき、と思い込んでいる演奏家やクラシックファンが多いようにも思える。先輩があるアマオケで「なんでこのメロディーをそんな風に吹くんだ。どんな録音を聴いてもそんな演奏はない。一体誰がそんな演奏をしてたんだ。言ってみろ」と言われて、呆れてしまったそうだ。既存の録音の継接ぎを再現しても、個人の解釈はおろか演奏慣習も満たさないだろう。

ひょっとしたらこのメンタリティ(それも聴き手側)が、演奏会の軽視や歪んだ批評を生み出しているのかもしれない。斯く云う私自身に対する自戒も籠めてなのだが。


新技術への期待
心臓幹細胞については、最先端の医学だけあって非常に面白かった。心臓肝細胞は、自己複製ができ、心臓の構成要素に分化しうる細胞で、心筋梗塞の治療に期待されている。分化に対するニーズがある部位で自発的再生が行われるが、ニーズがなければアポトーシスするそうだ。それだけに、ニーズと患部が一致しない時にどうするか、ニーズのある部位にどう幹細胞を導入するのか、等々の課題があるという。だが非常に有益で期待が大きい新技術であり、今後が楽しみだ。

また、循環器系のお医者様に多く参加いただいたため、議論も現場感溢れる活発なものとなり、そのやりとりを聴いているだけで非常に考えさせられた。


2008年最後の交流会に相応しい、盛況で有意義な交流会だった。


*1 美しいとされるための要件記述に留まる
*2 古楽、といってもバロック止まりではある。リュリルベルなどフレンチ・バロックの演奏はなかなか勉強になった

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by flauto_sloan | 2008-12-13 23:19 | Guest Speakers
信念 - ボストン日本人研究者交流会
日本人研究者交流会にて、友人でエコノミストのsoheiさんと、パナソニックのDVD技術者の方に発表していただいた。Soheiさんの『信念』を主軸にした協調の経済学という視点、またパナソニック(松下)の哲学に心打たれた、面白い交流会だった。

協調の経済学
Soheiさんは市場メカニズムから金融危機までを、「協調」を軸としたシンプルなモデルで説明してくれた。以下に要旨
世の中の真理を全て知識として取り込むことができないため、人は「信念」を作り出して知識の不完全性を補う。知識を増やすには情報を取り込んで蓄積しなければならないが、こと未来の現象に関しては知識に不確実性が伴う。前例・知識が十分で現象の確率がわかっていればリスクとして管理できるが、そうでない「ナイトの不確実性」が伴うものが現実の経済現象には多い。

不確実な中で行動するためには、信念を基にするしかない。行動の結果を認知することで信念が強化されたり変化したりする。その個々人の行動の総体として結果的に秩序や無秩序が生まれる。その例の一つが市場であり、「この株価はいくらくらいが適正だろう」という信念で売買を行うことで、市場が価格を形成し、結果としての価格を情報として信念を調整する。これが相互作用を起こすことによって意見が自動集約され、市場が変化していく。

一方で市場の変化スピードが、人の信念の調整スピード(認知能力)を上回ってしまった場合、状況を把握しきれずにバブルといった無秩序・パニックが生じる。また取り付け騒ぎのように、フィードバックのメカニズムによっては、予言や予測が自己実現する相互作用もある。

今回の金融危機は、「影の銀行」の取り付け騒ぎだと考えられる。「表の銀行」である商業銀行は規制があるため、大きな儲けはできないが流動性は担保されている。自然生成的な「影の銀行」である投資銀行やヘッジファンドは、CDSやMBSなどといった金融工学を利用した商品を介在して、投資家から資金を集めて個人や企業に融通していた。だが財務省がベア・スターンズを救済しながらリーマン・ブラザーズを潰して一貫性が欠けてしまったことで、信念が揺らぎ、疑心暗鬼である信用不安が引き起こってしまった。破綻は不可避であったとしても、それが危機になってしまったのはリーマン・ショックが引き金だった。

複雑なシステムは危険であり、一度問題が起こると人間の認知の限界を超えてしまい、収拾できなくなってしまう。だが規制はより複雑なシステムを生みかねない。金融機関がシンプルなシステムを構築したくなるようなインセンティブをどう設計するのかが今後の世界の金融当局の課題となろう。
信念による行動とそのフィードバックによる信念の変化、というシンプルなモデルを基に、様々な経済・社会現象を説明していくのが痛快で非常に面白い。

また「表の銀行」「裏の銀行」という表現は非常に事実をうまく単純化していてわかり易い。この裏の銀行という、人の作りし怪物は、好況時には貪欲に金を食い続けて自己肥大化し、ひとたび行き過ぎて破裂すると、ブラックホールのように希望や家や職を吸い込んでいく。人はコントロールできるかどうかで状況に対する安心感が変わるのだが、今はコントロールできない恐ろしさを皆が感じている。その恐れ自体が恐れを生み出しているのに。

Soheiさんは、フランクリン・ルーズベルトの大統領就任演説の名文句
"Only Thing We Have to Fear Is Fear Itself (我々が恐れなければならないのは、恐れそのものだ)" を引用して、希望を背に大統領に就任するオバマ次期大統領の就任演説と、それに続く施策に期待を寄せていた。

日本はこの15年で現状や将来に対する期待値が徐々に下がり、不安に麻痺してしまってきたが、今回の危機はそんな鈍化した痛覚でもはっきりとわかる規模だ。日本人もアメリカ人同様、今非常に恐れを抱いている。政府や海外に対して異常なまでに先鋭化し、スケープゴートを求めて安心しようとしている。残念ながらマスコミその他が強大な負のフィードバック(ある施策に対して、その効果を減殺する作用をもたらす)を生み出しているため、なかなか日本で希望を持つのは難しいだろう。

こういう時こそ、世の中がどうなっているのかをしっかりと国民に説明して解き明かし、恐れを取り除いて行動を取らせるリーダーと、その重要性を理解して余すところなく伝える報道が必要だ。FDRがかつてしたように。


松下哲学
パナソニック技術者の方の発表は、CDやDVDの技術についての話が中心で面白かったのだが、最後に少しだけ触れた松下の哲学が興味深かった。

パナソニックの社員は常に松下の経営哲学を毎日唱えるので、トップから現場まで同じ考え方で貫かれている。例えば、「客の言うことばかり聞いて製品を作るな。客の想像つかないものを見せないといけない」「会社は社会の公器であり、利益ばかり追求するな」といったことを、現場でも考え続けている。ひたすらに利益を追い求める会社にはならないだろうが、従業員は高い志で働いているのが、この会社の凄いところだと感じている。

松下幸之助は、欲望が自己増殖することがわかっていたので、哲学で欲望のみの追求を是としなかったのかもしれない。アメリカ的資本主義的な、定量的なわかり易さは、利益やレバレッジといった数字に落ちてくるものが、捨象された真理の一側面でしかないことを忘れ、それを信念で補っているに過ぎないことを忘れ、欲望の自己増殖に免罪符を与えたのかもしれない。この戦後70年くらいは、人類の歴史におけるバブルでしかないのかも知れない。だがバブルが弾けた先の人類の未来が暗いとは限らない。そこへの希望を与えてくれる大統領であれば、オバマは人類史に残るかも知れない。
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by flauto_sloan | 2008-11-15 19:51 | ボストンでの生活