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MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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100K Final – 熱情、拒絶、機会と忍耐
MIT恒例の100K Business Plan Competition の決勝戦が行われた。昨年から分野別になって参加チームが大幅に増え、今年も大盛況だったらしい。MIT生が参画していることがチームの参加条件だが、他校からも多く参加している。$100,000という賞金の魅力と伝統とで、ボストンの起業家の登竜門となっている。
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今年はキーノート・スピーカーにiRobotのCEOが招かれた。iRobotはMITのロボティック・エンジニアリングを下敷きに生まれたベンチャーで、日本でも販売が開始された自動走行の掃除機ロボット『ルンバ』で成長した企業だ。つい先日も会長がMITで講演しており、いまだに結びつきは強い。

ユーモアたっぷりの講演で、MITのオタクさと起業家の熱意が伝わってくる。彼が強調した4つの重要なことは、波乱万丈の人生経験に裏づけされて説得力があった。
  • Passion: 熱い情熱は前進する原動力だ
  • Rejection: 拒絶されることから学べるものはあり、また拒絶されても諦めてはいけない
  • Opportunity: 機会があったらそれを取りにいかない手はない。何としても取りにいけ
  • Persistence: 成果がすぐに現れなくても、辛抱強くいることは重要だ
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身近で偉大な起業家の言葉に刺激されて、決勝の6チームが3分間のピッチを行う。

優勝したのはTechnology Trackの、コンピューターセキュリティのソフトをリブートなしにアップデートする技術。ピッチは非常に面白かったが、どんな技術なのかが今ひとつ伝わらず、正直言って優勝するとは思わなかった。だが確かに市場性や技術は大きかったのだろう。リブートによるダウンタイムやそれに伴う機会損失は大きい。それがジャッジの評価につながったのだろう。


個人的に素晴らしいと思ったのは、緑内障予防薬を含んだ使い捨てコンタクトレンズだった。患者は現在の治療法だと、6つの点眼薬を一日に何度も注さなければならず、その面倒さから半数が半年で治療を断念してしまう。その結果、全米2番目の失明の原因になっている。MITで生まれたこの技術は、コンタクトレンズにその薬を含ませることで点眼を不要にし、治療の負担を大幅に軽減した。まさに治療プロセスにイノベーションをもたらす製品だ。

プレゼンターはクラスメートのクリスだった。クラスでは地味だった彼が、熱情を持ってプレゼンを行っていた。優勝できなかったのは残念だが、一番素晴らしい内容だったとクリスに伝えると、満足そうな笑みが返ってきた。この拒絶も糧にして、機会を追い続けてほしい。


若江君Lilacさんも書いているが、不況にあって起業熱はむしろ高まっている。仕事がないという学生の危機感、サステナビリティーやエネルギーへの社会的関心と、額はあるが投資先に困っているリスクマネーとが結びついている。友人にも在学中に起業したり、卒業後すぐに起業する人がいる。

私もクリスを始めとする彼らには随分と刺激された。会社を興すだけがアントレプレナーシップではないので、自分なりの起業家精神を育て、社会のニーズを見つめ、パッションとともに自分の原動力にしたい。勇気付けられる決勝戦だった。
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# by flauto_Sloan | 2009-05-13 23:29 | MITでの学び(非MBA)
Staatskapelle Berlin/Boulez
カーネギーホールで、マーラー・チクルス(マーラーの全交響曲連続演奏会)が行われている。オーケストラは名門シュターツカペレ・ベルリンで、指揮者ブーレーズで、総監督はバレンボイムだ。今回は私がマーラーで最も好きな交響曲第6番『悲劇的』を演奏した。素晴らしい管楽器と、ブーレーズのドラマチックな指揮が、悲運に立ち向かう英雄をドラマチックに描き出す、感動的な演奏だった。

『悲劇的』
マーラーの交響曲の中でも完成度が高い名曲である6番は、様々な逸話とともに『悲劇的』と題されている。力強い英雄の奮闘を描いたこの曲は、クライマックスの第4楽章が極めて劇的だ。カウベルで象徴される安寧から身を奮い立たせ、運命に立ち向かう英雄。苦闘をしつつも戦いに勝利が見え、勝鬨を挙げようとするその時 - 運命が英雄を激しく叩きのめす。巨大なハンマーの一撃によって曲想は一転し、狼狽する英雄と、それを嘲笑う運命。再び勇気を取り戻し、戦いに向かう英雄を待ち構えたのは、再び振り下ろされる運命の一撃だった*1。そして英雄は静かに斃れる。

この曲を聴くたびに、抗い難い運命の切なさと、それでも立ち向かう英雄への憐れみが、胸のうちから沸き起こる。自分は何度このハンマーに叩きのめされたのだろうか、それでも立ち上がる勇気を持っているだろうか、と自らに問いかける。日本ではほとんど聴かなかったマーラーに開眼して以来、狂ったようにCDを集め、聴いていた曲だ。遂にこの6番を生で聴く機会が訪れた。

指揮者によっては最後にハンマーを追加し、英雄の最後の望みも断ち切る。一方で最後の盛り上がりを華やかに明るく演奏し、3度目には勝利を勝ち取ったのだと解釈するものもある。


ブーレーズのマーラー
シュターツカペレは連日のマーラー演奏で疲れが見えるものの、管楽器のトップの目を見張るような素晴らしさ(木管とホルンは驚くべき巧さ)と、ドイツ的な厚い響きとで、重厚な英雄像を描いている。ブーレーズはラトルのような緻密さはないが、ドラマチックな表現で物語の輪郭を際立たせる。

第1楽章は深いリズムと、ここぞという時のテンポの揺らしが格好良く、胸躍る名演だった。続く第2楽章はスケルッツォで*2、スケールが大きい響きと、地から湧き上がるようなリズム。中間部の木管楽器の絡みが、のどかな牧場を思わせて美しい。第3楽章は早めのテンポだが、オケはのびのびと歌う。だが迫りくる運命を仄めかす切なさも忘れない。

そして第4楽章。低音金管が全体の構造を際立たせる。序盤の美しさも見事ながら、英雄の戦いは力強く迫力がある。そして気宇壮大な英雄の力が存分に表現されると、それを打ち砕くハンマーが振り下ろされた。
あらゆる打楽器に重ねられたハンマーの一撃は、会場を揺るがすほど大きく鋭い。心臓に直に響いてきて、その後の弦楽器の狼狽はまさに自分のうろたえる姿であった。

再び立ち上がる英雄。その先を知っているだけに、その力強さが余計に切ない。2度目のハンマーは一度目よりもさらに鋭く、胸が痛む。

最後に満身創痍となった英雄だが、ブーレーズは寧ろ明るく力強く盛り立てる。3度目のハンマーは打たれない。英雄は最後には運命に勝ったのだろうか。生き急いでいるような盛り上げ方は、勝利か、あるいはその幻想を表したのだろうか。その疑問を残しつつ、英雄の息は絶えた。

私は、この英雄が3度目の苦難に立ち向かい、ついに人生に打ち勝ち、深い達成感と満足とを感じつつ眠りに付いたのだと感じた。いや、そう感じたい。


いい演奏で、素晴らしいオケであったが、粗さがあり華やかさはなく、誰もが文句なしの名演とまではいかないのだろう。だが私の個人的経験としては、とても意義深く、胸に去来するものがある演奏だった。

*1マーラーは当初ハンマーを3度打たせるつもりだったが、それを2回に直した。バーンスタインは3度目も叩かせている(DVDでは、3度目のハンマーを打たせるバーンスタインの苦痛の表情に心打たれる)が、この3つの運命の痛ましい打撃は、マーラー自身の3つの悲劇を表していると云われる。なお、指揮者ごとにハンマーの表現をまとめた動画もある
*2 スケルッツォを第2楽章にする版と、第3楽章にする版とがある

# by flauto_Sloan | 2009-05-12 23:16 | 音楽・芸術
スローン日本人会の送別会
スローンの日本人コミュニティでの送別会が行われ、ついに自分が送られる身になったと実感する。チャイナタウンの中華料理に集まった約40人は、子供が多く賑やかだ。この2年で小さかった子供たちも大きくなり、言葉も多く話すようになり、成長を実感する。

子供たちが成長したように、自分も成長しただろうか。長じての成長は発育とは異なるが、大人も成長し続ける、とキーガン教授のAdult Development で学んでいる。自分の場合はどうであろうか。いよいよ卒業が近くなり、この2年を振り返ることが増え、今後の自分を考えることが多くなっている。

その折り返し点が、このMBAだった。大変だった勉強生活、課外活動などを支えてくれたのは、家族や友人である。彼ら彼女らの助けなしには、この大きな自己変革はなし得なかっただろう。

この小ぢんまりとして温かいコミュニティも、もうすぐ散らばってしまう。楽しく盛り上がった送別会であるが、一抹の寂しさが残る夜だった。
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# by flauto_Sloan | 2009-05-10 23:12 | 交友
医療訴訟
今月のボストン日本人研究者交流会は、さいたま地裁医療集中部の裁判官をお呼びして、医療訴訟について発表していただいた。ボストンは医療機関が多いので、日本人のお医者様も多く、かねがねから医療訴訟についての関心は高かった。医学・法学ともに参加者が多く、関心の高さと問題意識から、活発な意見交換が行われた、実りある回だった。

法の専門家であって医療の専門家ではない裁判官が、医療過誤訴訟などの医療裁判でどうやって正しい判断をしていくのか。現在行っている取り組みや、今後の課題を、日米の制度の比較も含めて紹介していた。会場のお医者様の中には、実際に参考意見を述べたことがあるなど、裁判に関わった方もいて、率直な意見が飛び交った。
医療裁判で判断となる材料は、過失と結果の因果関係であり、そこに専門的知見を取り入れるために、カルテ・文献調査、担当医への聞き取りの他、協力医や鑑定人の鑑定書や証言を利用している。そのため、2007年度で平均的な民事事件では7.8ヶ月かかる審理が、医療裁判では短縮傾向にあってもまだ23.6ヶ月かかっている。鑑定を実施する場合は52ヶ月もかかる。また、判決にまで至るものは全体の35%であり(残りは和解や取り下げなど)、そのうち37.8%で原告が勝訴している。

時間がかかる最大の要因は、医師(協力医)の確保の難しさと、その医師の忙しさとなっている。地裁レベルでは、地元医師会との協力体制を整えたり、候補者リストを作成したりと、審理短縮化への取り組みを行っているが、全国的に組織立った制度はまだ十分ではない。

また、専門性と中立性・公平性のバランスを取ることは難しい。専門的意見を取り入れることは判断の正しさを担保するために重要だ。だが一方で原告としては、裁判官が医療界と距離があることを訴訟のメリットと考えている。
2004年に医療関連の訴訟数がピークを迎えた後に、減少傾向に転じたのは、裁判の結果が出始めて判決の相場がわかってきたもで、原告側が勝てないものを訴えないようになったためだと考えられる。これは実際の裁判を通じて、専門性と公平性のバランス感覚が裁判所に備わってきていることも示唆する。
だがこのバランスに正解はなく、むしろ社会や患者のニーズに応じて、医療訴訟以外の選択肢を広げるための制度作りも進めていくことが有効だ。たとえば、過失の有無に関わらず補償する制度や(副作用・産科など)、ADRといった制度の役割は増していくだろう。

裁判が全てではない。真摯に謝りたいと思っている医者も、裁判だと患者やその家族に対し厳しい言葉を使わねばならないことがある。医者も裁判にかけられると時間を取られ、判決に関わらずキャリアに変化が訪れることもある。多様な選択肢は医者と患者双方に便益があり、裁判所も鑑定人リストの共有などで支援していくことが重要であろう。

今回は民事の医療訴訟についてだったが、質疑応答では千葉大法学部の先生で刑事の医療訴訟を研究している方がいたこともあり、刑事事件についても熱い議論が交わされた。医療現場が気にするのは、どちらかと言えば民事訴訟よりも刑事訴訟だからだ。

特に福島の大野病院事件は、色々ときな臭い話も相俟って、医療現場に大きな心理的ダメージを与えていた。昨夏に地裁判決で医師の無罪が言い渡されて、医療崩壊のさらなる加速は一旦遅まったが、もはや萎縮医療や医療崩壊は避けられないだろう。

だが大きな司法判断として刑事事件は注目されるが、医師の日々のリスクとしては民事訴訟のリスクがつきまとう。医療サービスにチェック・アンド・バランスは必要だとしても、医者が最善を尽くした上での不幸な結果に対して、アメリカのように乱訴が行われては、ますます萎縮が進むだろう。

100%の無欠を志向する国民性は、製造業の品質向上や工芸品の美しさには貢献したが、サービスにおいては、対価を求めない品質改善が結果的に顧客の期待値を高め続けた。100%の品質を学習してしまった、あるいはそれしか知らない人々は、少しのミスや失敗も許容しない。さらに、お上に任せれば安心という主体性なき依存心と、失敗に対する懲罰意識の高さとが重なり、結果的に顧客に尽くしたサービス業がモンスターXXといった人々を生み出し、皆で自分の首を絞めている。

それがまず顕著に現れたのが医療現場であり、続いて教育現場やITサービス、果てはクリーニング店にまで、品質や対価が不明確なサービス業を中心に、同じ構造の現象が起きている。高すぎる期待値と、失敗に対する顧客によるクレーム・懲罰・訴訟増加(モンスター化)、そのリスク回避のための萎縮サービスや現場の士気低下・人材流出。その結果、最初は自然誤差だった失敗をトリガーにした悪循環が回り始め、品質が本当に下がっていってしまう。

この悪循環を断ち切る方法は、事情によって異なる。何もしなくても、時間がある程度解決はする。人々が「100%の品質はもう得られない」と学習して、期待値を下げるからだ。出産には死の危険が伴う、クリーニングに出せばシャツのボタンが溶けることがある、という二十年前なら当たり前だったことを、常識として受け入れれば、世の中の不幸は増えるが、不満は軽減される。

医療の場合は、先に医療訴訟の相場観が生まれてきている。「このケースでは勝てない」という基準を社会および司法関係者が学習していくことによって、やがて「このケースは医師に過失がない」、「医療には限界があり、結果責任はとれない」と学習していくこと期待したい。

あるいはITの世界でよくあるように、サービスレベルを設定し、高品質には高い値段を(そして低価格には低品質を)設定しなければならない。公立校と私立進学校の差や、自由診療もこのケースだ。ただし、サービスの売り手と買い手双方に教育が必要であり、それはそれで時間がかかる。また、よく言われる「医は仁術」という言葉は、医者は採算度外視で患者に尽くすべきだ、という誤解された意味でまかり通ってしまっている*。こんな誤解が蔓延する日本に、どこまで馴染むのか疑問だ。


結局、医療の質はバブルだったのかもしれない。現場の医師が寝ずに頑張り続けて、本来維持可能な品質レベルを超えたサービスを提供し続けてきた。だが維持可能なレベルと実際のレベルがあまりに乖離しすぎて、医療品質バブルが弾けたのだろう。株価や地価のようなわかりやすい数字が医療の品質にはないため、バブルという実感が医師患者双方になかったし、バブルが弾けたときにもその影響がわからなかった。萎縮、とはバブルの破裂のことなのだ。

金融危機が訪れても、アメリカ人が本来あるべき地価は下落後の今よりも高いはずだと考えているように(100年間の実質地価推移を見ると、現在の地価でもまだ「本来の」地価よりも高い可能性がある)、医療崩壊が訪れても、日本人は当面、本来の医療の質は崩壊前のレベルだと考え続けるだろう。今は膨れ上がった期待を本来のものへ引き下げるという、痛みを伴い、誰かを訴えて自分の責任を軽くしたいフェーズにある。それが民事刑事の医療関連訴訟の増加であり、マスコミの客観性を欠いた医者・厚労省叩きであろう。

だが再度手に入れられる可能性のある金や家と違って、健康や命は取り戻せない。医療品質バブルに伴う損失は大きく、引き起こされる感情的抵抗は激しい。まずは発表であがったような行動できる選択肢の多様化、原因解明を可能にする制度、現場の透明性確保、原告・被告への心理カウンセリングといった、当事者が「納得するためのプロセス」を整備しないといけないだろう。

* 安岡正篤翁曰く「仁というのは、自然(天)が万物を創造し化育していく、いわゆる天地の生の徳、生み成していく生産、結びである。『医は仁術なり』というと、仁の本当の意味がわからない医者が嫌がる。ただで診てやるという意味ではなく、患者の病気を治す、健康にしてやるという意味なんであります。いくらただで診てやったとしても、殺してしまったのでは仁にならん。謝礼を取る取らないという問題ではなく、患者を哀れんで助けるというのが仁術という本当の意味であります」
(安岡正篤著 『指導者の条件』 黙出版 pp.150)
# by flauto_Sloan | 2009-05-09 23:53 | ボストンでの生活
Sam Adamsの生まれるところ
サミュエル・アダムスは、ボストン生まれのアメリカ建国の父の一人であるが、現代では"Sam Adams"といえば、ボストンの地ビールを連想する人が多いだろう。ビールの方のサム・アダムスの生まれるところ、ボストン・ブリュワリーを、同期日本人の有志(というかビール好き)で見学した。目当てはもちろん、出来たてのビールの試飲だ。
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サウス・ボストンは治安が悪く、そこを走るため夜には乗ってはいけないと言われるオレンジ・ラインに乗って工場へ。工場は煉瓦造りの倉庫や醸造所が立ち並ぶ。
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中は大きな醸造タンクが立ち並ぶ。サム・アダムスはホップをたっぷりと入れて、芳醇な香りを出しているのが特徴的で、そのホップの見本を実際に手に取り、香りを嗅ぐ。飲みなれたあのビールの香り。喉が渇く。
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そして見学の最後に待つのは、出来たてのビール。3種類のビールを飲んだが、飲むのにも作法があり、ガイドが飲み方を順に説明する。

まず露を払って色合いを見、グラスを透かして透明度を見て・・・

喉を渇かせてきた身にはなかなかじれったいが、ビールを心ゆくまで楽しむべく、ちゃんと従う。そしてついに喉を通ったビールは、さすがに美味しい。これぞボストニアンの魂の味。

まさに至福の、ボストンの楽しみ方だった。
# by flauto_Sloan | 2009-05-08 23:22 | ボストンでの生活