今月の
ボストン日本人研究者交流会は、さいたま地裁医療集中部の裁判官をお呼びして、医療訴訟について発表していただいた。ボストンは医療機関が多いので、日本人のお医者様も多く、かねがねから医療訴訟についての関心は高かった。医学・法学ともに参加者が多く、関心の高さと問題意識から、活発な意見交換が行われた、実りある回だった。
法の専門家であって医療の専門家ではない裁判官が、医療過誤訴訟などの医療裁判でどうやって正しい判断をしていくのか。現在行っている取り組みや、今後の課題を、日米の制度の比較も含めて紹介していた。会場のお医者様の中には、実際に参考意見を述べたことがあるなど、裁判に関わった方もいて、率直な意見が飛び交った。
医療裁判で判断となる材料は、過失と結果の因果関係であり、そこに専門的知見を取り入れるために、カルテ・文献調査、担当医への聞き取りの他、協力医や鑑定人の鑑定書や証言を利用している。そのため、2007年度で平均的な民事事件では7.8ヶ月かかる審理が、医療裁判では短縮傾向にあってもまだ23.6ヶ月かかっている。鑑定を実施する場合は52ヶ月もかかる。また、判決にまで至るものは全体の35%であり(残りは和解や取り下げなど)、そのうち37.8%で原告が勝訴している。
時間がかかる最大の要因は、医師(協力医)の確保の難しさと、その医師の忙しさとなっている。地裁レベルでは、地元医師会との協力体制を整えたり、候補者リストを作成したりと、審理短縮化への取り組みを行っているが、全国的に組織立った制度はまだ十分ではない。
また、専門性と中立性・公平性のバランスを取ることは難しい。専門的意見を取り入れることは判断の正しさを担保するために重要だ。だが一方で原告としては、裁判官が医療界と距離があることを訴訟のメリットと考えている。
2004年に医療関連の訴訟数がピークを迎えた後に、減少傾向に転じたのは、裁判の結果が出始めて判決の相場がわかってきたもで、原告側が勝てないものを訴えないようになったためだと考えられる。これは実際の裁判を通じて、専門性と公平性のバランス感覚が裁判所に備わってきていることも示唆する。
だがこのバランスに正解はなく、むしろ社会や患者のニーズに応じて、医療訴訟以外の選択肢を広げるための制度作りも進めていくことが有効だ。たとえば、過失の有無に関わらず補償する制度や(副作用・産科など)、ADRといった制度の役割は増していくだろう。
裁判が全てではない。真摯に謝りたいと思っている医者も、裁判だと患者やその家族に対し厳しい言葉を使わねばならないことがある。医者も裁判にかけられると時間を取られ、判決に関わらずキャリアに変化が訪れることもある。多様な選択肢は医者と患者双方に便益があり、裁判所も鑑定人リストの共有などで支援していくことが重要であろう。
今回は民事の医療訴訟についてだったが、質疑応答では千葉大法学部の先生で刑事の医療訴訟を研究している方がいたこともあり、刑事事件についても熱い議論が交わされた。医療現場が気にするのは、どちらかと言えば民事訴訟よりも刑事訴訟だからだ。
特に福島の大野病院事件は、色々ときな臭い話も相俟って、医療現場に大きな心理的ダメージを与えていた。昨夏に地裁判決で医師の無罪が言い渡されて、医療崩壊のさらなる加速は一旦遅まったが、もはや萎縮医療や医療崩壊は避けられないだろう。
だが大きな司法判断として刑事事件は注目されるが、医師の日々のリスクとしては民事訴訟のリスクがつきまとう。医療サービスにチェック・アンド・バランスは必要だとしても、医者が最善を尽くした上での不幸な結果に対して、アメリカのように乱訴が行われては、ますます萎縮が進むだろう。
100%の無欠を志向する国民性は、製造業の品質向上や工芸品の美しさには貢献したが、サービスにおいては、対価を求めない品質改善が結果的に顧客の期待値を高め続けた。100%の品質を学習してしまった、あるいはそれしか知らない人々は、少しのミスや失敗も許容しない。さらに、お上に任せれば安心という主体性なき依存心と、失敗に対する懲罰意識の高さとが重なり、結果的に顧客に尽くしたサービス業がモンスターXXといった人々を生み出し、皆で自分の首を絞めている。
それがまず顕著に現れたのが医療現場であり、続いて教育現場やITサービス、果てはクリーニング店にまで、品質や対価が不明確なサービス業を中心に、同じ構造の現象が起きている。高すぎる期待値と、失敗に対する顧客によるクレーム・懲罰・訴訟増加(モンスター化)、そのリスク回避のための萎縮サービスや現場の士気低下・人材流出。その結果、最初は自然誤差だった失敗をトリガーにした悪循環が回り始め、品質が本当に下がっていってしまう。
この悪循環を断ち切る方法は、事情によって異なる。何もしなくても、時間がある程度解決はする。人々が「100%の品質はもう得られない」と学習して、期待値を下げるからだ。出産には死の危険が伴う、クリーニングに出せばシャツのボタンが溶けることがある、という二十年前なら当たり前だったことを、常識として受け入れれば、世の中の不幸は増えるが、不満は軽減される。
医療の場合は、先に医療訴訟の相場観が生まれてきている。「このケースでは勝てない」という基準を社会および司法関係者が学習していくことによって、やがて「このケースは医師に過失がない」、「医療には限界があり、結果責任はとれない」と学習していくこと期待したい。
あるいはITの世界でよくあるように、サービスレベルを設定し、高品質には高い値段を(そして低価格には低品質を)設定しなければならない。公立校と私立進学校の差や、自由診療もこのケースだ。ただし、サービスの売り手と買い手双方に教育が必要であり、それはそれで時間がかかる。また、よく言われる「医は仁術」という言葉は、医者は採算度外視で患者に尽くすべきだ、という誤解された意味でまかり通ってしまっている
*。こんな誤解が蔓延する日本に、どこまで馴染むのか疑問だ。
結局、医療の質はバブルだったのかもしれない。現場の医師が寝ずに頑張り続けて、本来維持可能な品質レベルを超えたサービスを提供し続けてきた。だが維持可能なレベルと実際のレベルがあまりに乖離しすぎて、医療品質バブルが弾けたのだろう。株価や地価のようなわかりやすい数字が医療の品質にはないため、バブルという実感が医師患者双方になかったし、バブルが弾けたときにもその影響がわからなかった。萎縮、とはバブルの破裂のことなのだ。
金融危機が訪れても、アメリカ人が本来あるべき地価は下落後の今よりも高いはずだと考えているように(100年間の実質地価推移を見ると、現在の地価でもまだ「本来の」地価よりも高い可能性がある)、医療崩壊が訪れても、日本人は当面、本来の医療の質は崩壊前のレベルだと考え続けるだろう。今は膨れ上がった期待を本来のものへ引き下げるという、痛みを伴い、誰かを訴えて自分の責任を軽くしたいフェーズにある。それが民事刑事の医療関連訴訟の増加であり、マスコミの客観性を欠いた医者・厚労省叩きであろう。
だが再度手に入れられる可能性のある金や家と違って、健康や命は取り戻せない。医療品質バブルに伴う損失は大きく、引き起こされる感情的抵抗は激しい。まずは発表であがったような行動できる選択肢の多様化、原因解明を可能にする制度、現場の透明性確保、原告・被告への心理カウンセリングといった、当事者が「納得するためのプロセス」を整備しないといけないだろう。
* 安岡正篤翁曰く「仁というのは、自然(天)が万物を創造し化育していく、いわゆる天地の生の徳、生み成していく生産、結びである。『医は仁術なり』というと、仁の本当の意味がわからない医者が嫌がる。ただで診てやるという意味ではなく、
患者の病気を治す、健康にしてやるという意味なんであります。いくらただで診てやったとしても、殺してしまったのでは仁にならん。謝礼を取る取らないという問題ではなく、患者を哀れんで助けるというのが仁術という本当の意味であります」
(安岡正篤著 『指導者の条件』 黙出版 pp.150)