MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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最後のボーゲル塾
c0131701_1528719.jpg2年間門下にいたボーゲル塾。今日はハーバードで講座を持つ武見敬三元参議院議員をお迎えし、最後のボーゲル邸での勉強会だった。
私の属していた、少子高齢社会での社会システム研究班が一年の討議結果を報告・議論し、ボーゲル先生からの最後の薫陶を受けた。本当に素晴らしい師であり、得難い機会であった

2050年の日本!?
討議内容の詳細は割愛するが、少子高齢社会となる2050年の日本の姿を考えるのは、非常に刺激的だった。移民政策の大きな転換がない場合、2050年には日本の人口が9000人から1億人にまで減少し、しかも高齢化が進む結果、労働力人口は半減する(現在の基準の場合)。

当然社会保障制度は現行のままでは立ち行かないし、産業も国内で若い労働力を調達することは非常に困難となる。内需は縮小していくだろうし、対外的に見れば中国はもちろん、現在の新興国にも経済規模で抜き去られる可能性が大きい。

ではどうすべきか。まずは移行の仕方や実行可能性を考えずに、どんなシナリオがあるのかをやや極端に描いて議論していったのだが、正直言って納得感のある絵はなかなか描けない。学生が10人集まって簡単に描けるようなら苦労しないのは尤もなのだが、1億人もの多大な人口(アメリカと中国ばかり気になり実感しにくいが、日本は人口大国でもある)と、縮小傾向だが巨大な経済規模を支えつつ、老いて減りゆく国民が国を成長させるというのは、非常に難しい。

人口が3/4になるなら、一人当たりGDPを4/3にしないとGDPは維持できない。だがそんなに生産性の高い仕事はなかなかないし、あってもそこに必要なスキルを国民の大半が身に付けることは難しい。グローバルな競争下ではなおさらだ。

一方で医療費や福祉関連に必要なコストは増大していく。それを賄うために増税は早晩必要なのだが、個人から取れば負担は激増するし、企業から取ろうとすれば海外移転や海外での再投資が進み、税収自体が減る。

解があるのかもわからない、複雑な連立方程式だ。


老いてますます盛んに
これが答だと言うつもりは全くないし、解決するのはごく一部の問題だとわかった上で、個人的には、2050年の日本では老人起業家が続出し、老人の、老人による、老人のためのビジネスが主流になってほしいと思う。「老人」の「老」の意味合いも変わってくるだろう。衰え、人生を閉じようとしている状態ではなく、体力と引き換えに多くの経験と知恵が蓄積した状態、と捉えるべきだろう。ただし、老人ビジネスが既得権益の確保であっては、ただでさえ貴重な若者の気鋭を殺いでしまう。老人企業を促しつつ、あくまでフェアな経済原理がはたらく制度設計が望ましい。

老人起業モデルが成功し、日本に「シルバー・バレー」が箱根の温泉街あたり(?)にできたら、やがて遅れて高齢社会を迎える他国の規範となるだろう。いつもゲームのルール作りで他国の後塵を拝している日本が、構造的に世界をリードする最後のチャンスかもしれない。

年金も、平均寿命よりも支給開始年齢を遅くするくらいの思い切りがあってもよいのかもしれない。そもそも年金制度をビスマルクが設計した時、支給開始年齢の65歳は、当時50歳以下だった平均寿命よりはるか後だったという。

半減する労働力人口を支えるには、現在就労率の低い老人、女性、子供を働かせるか、人間以外のロボット、コンピュータか牛馬を使役させるしかない。これ以上の少子化を防ぎ、教育水準を維持するなら、人間における優先度は老人であろう。もちろんそのためには、老人が働き易くなり、老人ならではのポカやミス(特に痴呆は大きなリスク)をよけるための技術やノウハウを蓄積していくことも必要だろう。

・・・云々と考えていて、はてこの定年なしに働かされ続ける2050年の老人は誰だろうと考えてみると、外ならぬ自分である。少しは休みたいと思う気持ちはあるが、一方で、その頃の老人ならば英語が話せ国際経験があり、若い頃からコンピュータに触れている。今の老人とはまた違う動き方・考え方をしていることだろう。想像(妄想?)には限りはないが、高齢社会も遣り様によっては面白いかもしれない。悲嘆ばかりしても仕方ない。


老師エズラ・F・ボーゲル
いつまでも矍鑠としていて洞察深いボーゲル先生と議論し、また2050年の高齢者とはまさに自分達だと気づいたとき、老いることの可能性、生涯学び続け成長し続けることの楽しさに触れ、それを信じたいと思った。

そしてこの2年を通じて、天下国家を語るための視点とはどのようなものか。まだまだ浅学にして未熟者でありながら、ボーゲル先生から少し学ぶことができたと思うMITで講演を依頼した時に、個人的にお話させていただく機会があったのだが、先生は日本人以上に日本と日本人を愛する、知の巨人でありリーダーだった。その先生に学んだ志と、それを一にする門下生の結びつきとは、日本に帰るにあたって一番の土産かもしれない。

このボストンにて、ハーバード松下村塾(ボーゲル塾の正式名称)に通えたことを、誇りに思う。
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# by flauto_sloan | 2009-05-04 23:15 | Harvardでの学び
OpsSimCom - 遊びて学ぶ
MIT Sloan Operation Clubが主催する、MBA Operation Simulation Competition に、スローンのブロガーであるKazさんShintaroさんと参加した。(その様子をKazさんがブログに書いている)

一度昨年のオペレーション入門の授業で行ったシュミレーション・ゲームなのだが、今回は不況を反映して設定が変わり、キャッシュが枯渇しそうで借金もできない中、3日間フル稼働で工場運営をし、一番キャッシュを稼いだチームが優勝となる。参加チームは全世界のビジネススクールから100チームで、中国のCEIBからも多数参加している。


前回の授業の時に、かなり手ひどい失敗をしてしまい、生産計画とはどういうことか、コミュニケーションや委任・信頼とは何かを学ぶこととなった。今回はその教訓を生かして、目指せ上位、と意気込んだ。

3日間はなかなか睡眠不足で、いつも工場のことが気になるほど、3人とものめりこんでしまった。

だが結果は・・・残念ながら中の下といったところ。これはこれで学ぶことは多かったのだが、やはり周到な事前計画と、予想と現実がずれたときの思い切った判断/度胸が必要だと痛感。これを一人で行えることが望ましいが、人間にはマインド・セットやメンタル・モデルがあるので、これをカバーするチームワークはもっと重要であり、チームがワークするための、信頼とタイムリーで密度の濃いコミュニケーションは必要だ。


前回の授業の設定をベースにShintaroが素晴らしいモデルを作ってくれた。これで事前計画が進み、非常に効率的で効果的なスタートを切れたのだが、今回のゲームでは、需要の現れ方が前回と大幅に変わったり、ある機械のキャパシティが最後までなかなか把握できなかったりと、試行錯誤で修正しなければならない部分が多かった。だが工場運営に追われ、集まった運営データからモデルを修正する人を置けなかった。オペレーションの授業だからといって、オペレーションに埋没してしまっては意味がない。現場監督だけでなく、経営企画部も持たなければ、企業は大きく成長できない。

また、現場での判断は、最後は合理性の彼方にあるので、そこでは自分の性格や、過去の成功または失敗経験が知らず知らず影響してしまう。それに気が付いて補正し、できるだけ偏らない判断にすることは、一人では極めて難しい。せっかく能力的にも相性としても良い、強いチームだっただけに、ゲーム進行中に一歩引いてチームダイナミクスを観察し、経営企画を作ろう、といった方向修正を早めにすることができていれば、もう少し上位になれたかもしれない。


オペレーションで学んだことも、リーダーシップで学んだことも、実践は難しいのだが、シミュレーションというリスクのない状況だからこそ、失敗からこうして学ぶことができる。まさに参加したことに意義があった。

ともあれ、なかなか大変ではあったし、賞金は遠く逃したが、非常に面白いコンペティションだった。


ちなみに、優勝はスローンのLFM (Leaders For Manufacturing) という、MSとMBAのヂュアルプログラムの人たちのチームだった。主催校のスローンが優勝できて、まずはなにより
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# by flauto_sloan | 2009-05-03 13:55 | MITでの学び(MBA)
NYP/Gilbert/Bell - 次世代の真価
NYPで来期から常任指揮者となる、Alan GilbertがNYPを振るので、来年を占う意味も籠めて聴いて来た。< a href="http://sloanmit.exblog.jp/11378655/">BSOを振った時同様、現代曲(マルティヌーの交響曲第4番)では素晴らしい才能と統率力を発揮していたのだが、古典的な曲(といってもドヴォルザークとサン・サーンスなので十分新しいが)での指揮に不安が残った。保守的なNYの聴衆を、古典も取り上げる来年のプログラムでうまく納得させられるか、真価が問われることだろう。

相性?
一曲目のドヴォルザークの交響詩『黄金の紡ぎ車』は、もともと曲が面白くない。だが面白くない曲を面白く演奏してこそ、深い洞察やそれを表現する統率力や構成力を持つ名指揮者だと言える。先日のムーティは、同じように面白みのない曲でも、面白く聴かせてくれた。だがギルバートの演奏にはそうしたわくわくする面白さや、演奏家が胸の奥から本気を出すような統率力も、あまり感じられなかった。

続くサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番は名曲がつまらなくなってしまった。イケメン・ヴァイオリニストであるジョシュア・ベルの未熟で粗い演奏と、それを十分下支えしきれないギルバートの指揮とで、サン・サーンスの良さが伝わってこない*

才気煥発
だがメインのマルティヌーに入ると、非常に素晴らしい演奏を繰り広げた。響きもリズムも自在に操り、調和と非調和から、全体としての美しさや面白さを引き出している。この洞察、統率力、構成力はまさに一流の指揮者だ。BSOの時同様に、さすが次世代のトップ指揮者と納得がいく演奏だった。

だが、いくら相性がよく得意だからといって、現代曲ばかり演奏するわけにはいかない。来年のNYPのシーズンは、確かに20世紀以降の曲が増えた(ルネ・フレミングを迎えるガラは、メインこそ幻想交響曲だが、それ以外は世界初演とメシアンだ)。だが、ベートーヴェンやモーツァルトも振る。これらの曲をギルバートがどう料理するのか。

ニューヨークの聴衆は、ボストンに比べて保守的だと感じている(もちろんヨーロッパよりも)。古典でも質の高い演奏を聴かせられれば、彼の本領である現代曲への評価も高まるだろう。

海の向こうから彼のNYPでの評判を聴くのが楽しみだ。


* それにしても、ヴァイオリンを弾く妻は、前回聴いたときからジョシュア・ベルの演奏を酷評していたのだが、今回もなかなかに彼はお粗末だった。弥子瑕ではないが、色衰えれば彼の評価も大きく落ちてしまうかもしれない
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# by flauto_sloan | 2009-05-01 23:49 | 音楽・芸術
ダライ・ラマのMIT訪問
ダライ・ラマ14世がMITを訪問した。数年前にもMITはダライを招待し、今回が二回目となる。抽選に漏れてしまい、直接拝謁することは叶わなかったが、同時中継をする大教室で、このチベット仏教最高指導者の話を聞いた。中継会場であっても、入場時に全員起立し、最大の敬意を表す。残念なことに、中国系学生はあまり見られなかった。

禅僧のような厳しいお方かと思っていたが、ダライ・ラマはユーモアに溢れ豪放磊落であり、立場が異なる、あるいは敵対する人でさえも包み込むスケールの大きさを持っていた。英語は流暢な訳ではないが、短い一言一言は非常に考えさせられる深さを持つ。

チベット仏教の最高指導者であっても、「私は仏教を広めるつもりはなく、どんな宗教でも尊敬する」と仰ったのには、仏教徒としての共感と、その立場それ自体への尊敬を感じた。また、「チベットが独立して民主化を勝ち取っても、自分は宗教家であり政治化にはならない」とも仰り、人々への信頼と強い愛を感じる。

社会が抱える問題に対しては、「対案がなく改善のしようがなければ忘れてしまいなさい。さもなくば、ひとまず何かやってみなさい」と、前向きで勇気づけるメッセージをお送りになる。

翌日のジレット・スタジアムでの説教では、「私たちは皆同じ。違いなど取るに足らない」と始められたという。人種や派閥に区切られない、高次な世界がダライには見えている。

総じて、宗教指導者というよりも、民主主義と人々への信頼を訴える一人の人間、という姿が強く浮かび上がる。その背後の仏教的世界観や価値観が深いため、そのメッセージが一人の人間のものとしてでなく、より大きな意思として感じられた。

何より、このノーベル平和賞受賞者への非難や中傷を続ける中国共産党に対して、ダライ・ラマは恐れをまるで持たないばかりか、それを超えた敬意というか、共産党を赤子のように温かく見守り、その上で叱責する姿が印象的だった。個人攻撃を受け止めた上で気にせず、共産党の批判のようでいて、瞳の奥底に愛すら感じた。

対立や浅ましい憎しみ合いの彼岸にいるのは、このような方なのか、と感じ入った。

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# by flauto_sloan | 2009-05-01 23:49 | MITでの学び(非MBA)
BSO/Davis - 最後のBSO
今シーズン最後のBSOの演奏会は、サー・コリン・デイヴィス指揮によるベルリオーズ『テ・デウム』だった。格調高く壮麗な音楽を毎回聴かせてくれるデイヴィスなので、楽しみにしていたのだが、果たして最後を飾るに相応しい名演だった。

ボストンに住んでいるだけあって、何度となく通ったBSO。デイヴィスの演奏は内田との協奏曲など、名演が多かったので、最後をどう締めくくるのかと楽しみだった。満席の会場で奏でられたテ・デウムは、スケールが大きく、かつデイヴィスらしい肌理の細かさが素晴らしい。
終曲では胸に響くフォルテッシモが迫ってくる。BSOらしい、色濃い弦と、少し重めの管が、天上へと響き渡っていく。これが、恐らくシンフォニーホールで聴く最後のBSOかと思うと、音楽と感情とが合わさって、感傷的になってしまう。

デイヴィスはやはり素晴らしかった。聴衆もスタンディング・オベーションでこの一年の演奏家たちの奮闘を讃える。レヴァインの大病と復帰もあり、今年のBSOは非常によかった。素晴らしいシーズンを締めくくる、迫力あり感動的な演奏だった。

ありがとう、ボストン・シンフォニー・オーケストラ。

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# by flauto_sloan | 2009-04-30 12:29 | 音楽・芸術
音楽療法
バークリー音楽院のSuzan Hanser教授が、音楽療法についてMITで講演を行った。前から気になっている音楽療法がどのようなものなのか、夜遅いセッションだったが覗いてみた。面白いのだが、本当にどこまで実効的なのかはよくわからない。
病は気からというように、精神が身体に与える影響は大きく、だからこそプラセボが効果を持ち、ストレスが病気を引き起こす。原始時代にヒトを救った自律神経が、いまやヒトを殺そうとしている。
脳は共感する機能を持っており、自分や他人がとった行動から反応を起こす。音楽を聴くことで、脳が共感し、ストレスを開放し心身を新たな状態に持っていくことができる。

これを利用した音楽療法は医療現場でも取り入れられており、癌治療を専門とするダナ・ファーバー病院では、"Pod for Soul" というプレイリストを作り、癌患者の症状緩和に用いている。

特に痛みに関しては、メルザックのゲート理論が論じるように選択的であり、音楽が知覚を支配することで痛みを和らげられると考えられる。そのため、分娩時の鎮痛にも音楽が用いられる場合がある。他にも、免疫力を高める効果があるともいわれている。

音楽は録音されたものでも効果はあるが、生演奏の方が効果が大きいと思われる。ただし厳密な比較調査はまだ十分ではない。また、音楽の好みは人によって異なるので注意しなければならないのと、頭痛など病気によっては逆効果なこともある。
セッションの途中、参加者が目を閉じ、ハンセン教授の奏でるインディアン・フルートの音色に耳を傾ける実験を行った。いつものような批判的な聴き方ではなく、音の流れに身を任せると、癒されていくのを感じた。

音楽の効能は、先日の心理音響学の講演とあわせても、まだどこまで実証されているのかはなかなかわからない。だが「何かがありそう」だし、麻薬的な魅力は本能にプログラムされているものかもしれない。日本では音楽療法はまだ広まっていないが、アダージョ・カラヤンのヒットや、癒し効果を謳うCDを見ても、効果は実感されているのかもしれない。

音楽で人が変わる、という信念は実証にはまだ程遠い。
だがわからないからこそ、新しい動きになれるのかもしれない。
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# by flauto_sloan | 2009-04-28 05:26 | 音楽・芸術
WWWの巨人 – Sir Tim Berners Lee
MITの教授で、WWWの開発者である、Sir Tim Berners LeeWeb3.0の授業の最後のゲストスピーカーとして呼ばれた。某サイトで「憧れる有名ハッカー」に選ばれ、WWWで世界を変えた男とも言えるバーナーズ・リーは、恐ろしく頭の回転が早く、かつユーモアがあり、MITが擁する天才とはこういう人なのだな、と思わせた。
Web2.0は群雄割拠の無秩序を生み、それぞれの技術が囲い込まれてしまった。セマンティック・テクノロジーを中核とするWeb3.0はそうではなく、相互にオペレーションが可能で、一貫性を持ち秩序あるネットワークを作り上げることが必要だ。もちろん、それは全てが無料であることも、アクセスコントロールができないことも意味しない。

あらゆるデータが共通の土壌として繋がることで、あらゆる創造性がその上で開花する。一部企業がデータを独占しようとするだろうが、データを結びつけることによる価値の方が大きくなるのと、データの開示競争が引き起こされることで、あるところで閾値を超えてデータが共通化されていくだろう。

共通化されたデータが結び付けられる効果は計り知れない。たとえばWeb3.0の技術を導入している癌治療の分野では、それぞれの研究分野は狭い科学者達が、お互いのデータを結びつけたことで、既に便益が出始めている。

否が応でも、Web3.0の時代は到来するのだ。マイクロソフトが当初インターネットを毛嫌いしても、それを受け入れざるを得なかったように。
バーナーズ・リー教授は、セマンティック・ウェブによる秩序あるWeb3.0の姿を考えている。それが可能になれば、まさに人知を超えた発見が生まれる可能性がある。まさに人の創造性が自由に花開く土壌だ。

だがグーグルは力技によるセマンティック技術を進めており、教授の理想が実現できるかはまだ予断を許さない。Wolfram Alphaのような新しい技術も登場しており、いまだWebは群雄割拠である。

WWWコンソーシアムのような秩序だったアプローチが通用する規模を超えてしまっているのかもしれない。教授の推進するセマンティック技術が閾値を超えようにも、閾値自体が普及を上回るスピードで拡大しては意味がない。

無秩序から生まれる創造性と、秩序の上で花開く創造性。どちらが勝つのだろうか。


 ちなみに、質疑応答の中で「webの世界で一番驚いたことは何でしたか」と聞かれたバーナーズ・リー教授は「人々がHTMLを手で書いていたことだ」と答えていた… ちなみにこのブログも、微調整はHTMLタグを手打ちで入れ込んでいます
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# by flauto_sloan | 2009-04-27 22:05 | MITでの学び(MBA)
St.Luke's/Previn/Mutter, Fleming, Bashmet - 美しいラブレター
先日初めて生で聴いて感動したアンネ・ゾフィー・ムタールネ・フレミングが、アンドレ・プレヴィン指揮でセント・ルーク・オーケストラと競演した。プレヴィンの80歳の誕生日を祝うコンサートで、二大天才女流音楽家に囲まれ、自分の作曲した曲を振るプレヴィンは終始にこやかであり、華やかな演奏会だった。

ルネ・フレミングの艶やかな歌声は今日も見事で、ソロである分のびやかに歌っていた。続くムターとバシュメット(彼もまた、さすがに素晴らしかった!)のヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲も面白い。それにしても、カーネギーホールでもなかなか揃わないほどの、超豪華な面々だ。


だが今日の注目のプログラムは、メインのプレヴィン作曲のヴァイオリン・ソナタ『アンネ・ゾフィー』だ。BSOの委託で作曲したプレヴィンが、ラブレターとしてムターのために作曲した協奏曲で、初演後にこの二人は34歳の年の差を越えて結婚した(残念ながら現在は離婚してしまったが)。

そんな渾身の曲だけあり、プレヴィンの曲の中でも傑出している。美しいメロディーと、可愛らしく変化するリズムが、ムターの美しさとプレヴィンの愛情を見事に描写する。それを当人たちが演奏するのだから、素晴らしくないわけがない。

ムターの存在感は圧倒的で、気分が乗らない瞬間はあるものの、乗ってきたときには深くて胸に響く音色と、思い切りのいいリズム感、しなやかな身体から生まれるメロディーが、聴衆を魅了していた。オーケストラが二流なので、ムターについていけない場面が何度かあったのだが、そんなときはムターがオケに一瞥を送り、激励していた。ソリストでありながら、コンミスも兼ねていたかのようだ。

演奏が終わると、いつまでも美しいムターが、小柄な前夫プレヴィンの手を取り、頬にキスをしていた。別れたものの、音楽家としての尊敬と愛情は全く失われていない二人による、プレヴィン作曲『アンネ・ゾフィー』だった。
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# by flauto_sloan | 2009-04-25 18:15 | 音楽・芸術
MET/Levine: Ring Cycle (2/2) - 一時代の終わり
c0131701_10495384.jpg『ニーベルングの指環』の最終話、『神々の黄昏』を聴きにいった。超大作を完結させるだけあり、地下のドワーフ族、地上の人類、天上の神々の希望と欲望、そして滅びと再生が描かれる。指揮はもちろんレヴァインであり、1989年以来20年続いたオットー・シェンクによるプロダクションの締めくくりでもある。

人気が高かったシェンクの伝統的なプロダクションの最後なので、欧米のワグネリアンが集結したのではないかと思える人気ぶりで、会場は超満員。真夏日にもかかわらず、みな正装で最後の楽劇を聴きに来ている。通しのチケットのため毎回周りは同じ顔ぶれであり、妻がすっかり親しくなった隣席の老夫婦は、20年間欠かさず『指環』を聴いてきたという。2012年からの新しい『指輪』も聴き続けるのだろう。

ブリュンヒルデと人間の知恵
前回好演だったブリュンヒルデ役は代わってしまったが、彼女もヒロイックな声と、力強い声の演技が素晴らしい。人間的な愛の喜び、ジークフリートの裏切りによる憤怒、そしてジークフリートの死で知恵と神性を取り戻した時の決然とした神々しさの対比が、美しく演じ分けられている。

ワーグナーの楽劇は「動機」と呼ばれる、特定の意味を持つ音形(ジークフリートの動機、剣の動機、愛の戸惑いの動機、など)を覚えておくと楽しみが倍増する。特に、最後にブリュンヒルデがジークフリートの亡骸を焼く炎に身を投げる自己犠牲のシーンでは、ワルキューレの動機が織り込まれ、神々の特権である不死を失い人間になったものの、知恵という神性の欠片を思い起こしたことを指し示す。レヴァインはこの動機を力強く描き出し、人間に内在する知恵を表現していた。

ジークフリートのラインへの旅
ジークフリートも相変わらずヒロイックで格好いい。名曲「ジークフリートのラインへの旅」はワーグナーの天賦の才が遺憾なく発揮されていて、そしてレヴァインがそれを素直に表現していて感動的だ。

第2幕になると、ジークフリートは明るく無邪気に、ブリュンヒルデに自らの裏切りを告げる残酷な歌を歌い続ける。その無邪気さがブリュンヒルデの悲しみを一層引き立たせる。アルベリッヒの息子でドワーフのハーゲンの策略に翻弄される人間と神々、そしてその策略を可能にした、どろどろとした3種族の自分勝手な欲望と、無垢な故に利用されるジークフリートとブリュンヒルデ。一度転がりだしたら止まらない、運命の歯車を描いているワーグナーは流石だ。

神々の黄昏
英雄ジークフリートが殺され、ブリュンヒルデの自己犠牲によって、ニーベルングの指環の本来の持ち主であるラインの乙女がライン川を氾濫させ、指環を取り戻す。一方、神々の世界ヴァルハラは、持ち帰られたロゲの炎が、城壁に積まれた世界樹の欠片を焼き、ヴァルハラを炎に包む。

ラインの氾濫と天上で燃え上がるヴァルハラの対比が美しい。そして水が引くと、ドワーフ、人間、神の全てが滅んだかと思えば、月明かりの中で廃墟に人間だけがゆっくりと戻ってくる。自らを悔い改める知恵を得た人間への希望を示す、シェンクの美しい演出で、彼の『指環』は20年の幕を閉じた。
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# by flauto_sloan | 2009-04-25 10:40 | 音楽・芸術