MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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Bar Exam
妻の通ったコロンビア大学ロースクールの日本人は、大半が渉外事務所の弁護士か、商社の法務部門の方であった。そんな彼らの夏は、アメリカ(特にニューヨーク州)での弁護士資格取得に向けての勉強のためにある。その司法試験が終わった。

司法試験は "Bar Exam" と呼ばれる。法廷の手すり(バー)の向こう側に行く、という意味だ。だがどことなく、走り高跳びでバーを跳び越えるイメージが浮かぶ。

受験する方々は、5月の卒業式の頃からBarBriという司法試験予備校に通い、ひたすらに勉強をして試験に臨む。3ヶ月の長い訓練と助走だ。殆どの人はニューヨーク州の弁護士資格を狙うが、カリフォルニアで受ける人もいる。州ごとに資格が与えられるため、仕事の多い経済の中心地に自然と受験者が集まる。

ニューヨーク州では、マンハッタン在住の人はマンハッタンで受験できるが、他地域からの人は州都のAlbanyで受けることになる。AlbanyについてはMay-Iさんのブログに詳しい(そして微笑ましい)

ハーバードLLMの友人は、秋からNYの事務所で働くこともあり、早々にNYCへ引っ越した結果、マンハッタンで受験していた。だが多くのLLM生は、バーの後に大移動をする。妻も、西海岸の事務所で働くために試験直後に引越しをする友人から、アパートを引き継ぐ。

日本で数年に亘り、辛く長い司法試験の勉強をしてきた彼らが、再び異郷の地で司法試験の勉強を行う姿には頭が下がる。暗記の量も膨大だという。BarBriの期間はひたすら暗記をしないといけないので、その前のLLM期間に「考える」訓練をしておかねばならないという。

そんな苦闘の時期が終わり、妻の友人たちは開放感を謳歌している。昨年バーの打ち上げに妻と参加したが、皆晴れ晴れとして、浴びるようにビールを飲んでいたのが印象的だった。
合格率は日本より高いものの、誰でも受かると言うレベルではない。友人たちの吉報を祈るばかり。


MBAはというと、そういった試験もなければ修士論文も必修ではない。外的要因で学びを纏めることがないので、自分なりの目標や目的を持たねば、二年間はあっという間に過ぎてしまう。自分を律していかねば。
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by flauto_sloan | 2008-07-31 20:22 | NYでの生活
ハワイ旅行
c0131701_081177.jpgハワイへ旅行に行ってきた。妻の姉家族と一年ぶりに会うのに、中間地点のハワイを選んだ。
ハワイ島では自然に畏怖し、オアフ島では日本の経済力の残滓を見た。


雄大なるハワイ島
ハワイの中で最大(東京都の面積の5倍)であるハワイ島は、キラウエア・マウナケアの二大火山でできた火山島だ。特にキラウエアはまだ活動中で、地球の鼓動を感じる。

c0131701_084749.jpgキラウエア山に登ると、大きな火口から白煙が上り立つのが見える。その日は火山活動が活発で、火山性有毒ガスの濃度が高く、風下地域は通行止めだった。Japan Trekで行った大涌谷とはスケールが違う…

c0131701_0353677.jpg山は至る所溶岩で覆われ、中には溶岩の空洞に入れる場所もあった。海へ向かうと、つい2007年に溶岩で封鎖された道路もある。今回は行かなかったが、まだ赤いマグマを見られる場所もあるそうだ。そこから上がる蒸気は遠目にも見えた。
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火山活動で壊滅した町もあり、自然の脅威と隣り合わせの島民。そんな自然と調和しつつ(キラウエア山をペレという女神に見立てて崇拝している)、世界的に貴重なコナ・コーヒーの栽培をしている*1。日系移民も多く活躍しているのだが、八百万の自然崇拝が土地の自然や信仰とうまく調和できたのかもしれない。


夜には、すばる天文台など世界的に天体観測で有名なキラウエア山へ上った(中腹までだが)。360度は勿論、水平方向にも星空が広がる。
見たことのない星の数と、淡く広がる天の川。あまりに美しく、時を忘れて眺めていると、やがて落ちゆく流れ星。
古代に星座を見出した羊飼いのように、虚心に星空を見つめていた。
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c0131701_0121755.jpg美しい海と、日本的なオアフ島
オアフ島に移動すると、賑やかで日本語に溢れていた。ホノルルへは昔来た事があったのだが、アメリカで生活してから訪れると、気にならなかったことに気がつく。ここは日本ではないか、と。東京24区と言われるだけはある。

c0131701_030255.jpgオアフの海は美しい。珊瑚礁に囲まれ、美しいエメラルド色だ。
シュノーケリングのツアーに申し込むと、イルカのすぐ傍にまで近づけ、海亀と泳ぐことができた。イルカは上手くいけば海中で見られたのだが、運悪く失敗。だが船上から間近で見られ、楽しい。

海亀とは一緒に泳ぐことができた。素潜りし、眼前で海亀のとぼけた顔を眺める。向こうには人間がどう映っているのだろう。関心を示さぬ賢人のように泰然と泳いでいた。

c0131701_013595.jpgダイヤモンド・ヘッドへ登ると、そんな美しい海とホノルルの市街が一望できる。なかなかいい運動だ。

その市街地は、高層ホテルが立ち並び、ショッピングセンターが次々と広がり、日本語に溢れている。もともと日系人が多いために日本語や日本文化は残っているのだが、多くの店では日本語でやりとりできる。日本の高度経済成長とプラザ合意移行の円高の恩恵を最初に受けた海外の地なのだと実感。景気が減速し航空運賃が上がったにも拘らず、日本人に溢れていた。

だがあまりに日本に依存しているため、ともすればこのまま日本と共倒れになりかねない。免税店では中国語を話せる店員を配置するなど、中国からの観光客受け入れに対応しようとしている。だが日本の色がつきすぎていて、華僑の多い東南アジアのリゾートに中国客を奪われてしまうかもしれない。テイスト(嗜好)というのは大きな意志決定要因だ。

c0131701_028921.jpg・・・そんなことを思いながらも、東京にいたころよく行った「松玄」の鴨せいろを味わえることに感謝した。そうそう、これが日本人の愛するテイストだ、と思いつつ。

また、買い物好きの妻も、あまりショッピングはしなかった。アメリカ本土から来ると、多くのブランドはNYですぐに買えるので珍しさや有難さが無く、税金の安さ以上に購買欲をそそられなかったのだ。これも日本から来たときとは大きく異なる。

総じて、アメリカ人からしてみれば、ハワイは自然は美しいが、日本に経済を支配されてしまっている、違和感のある観光地なのかもしれない*2
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色々と面白い経験ができた旅だった。短いながらも海に山にアクティブに動きすぎたため、帰ってからはしばらくぐったりしてしまったが。


*1 お土産でこのコナ・コーヒーを買って帰ったところ、非常に美味しく、もっと買ってくればよかったと後悔
*2 韓国人が溢れ、韓国に経済を依存している状況の対馬も、日本人にしてみれば同じような感覚なのかもしれない

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by flauto_sloan | 2008-07-26 23:06 | 旅行
感染する銃犯罪
先日"Law & Order"を見ていたら、なかなかに興味深いテーマを取り上げていた。銃犯罪は伝染するという仮説だ。
銃犯罪を目撃した若者は、自身が銃犯罪を引き起こす可能性が約2倍になるというもので、何人かの科学者が研究しており、政策決定にも影響しているそうだ。

銃犯罪の伝染仮説
Harvard Medical SchoolのFelton J. Earls教授らの研究*1によると、シカゴの若者を対象とした5年間の調査の結果、何らかの理由で銃犯罪を目撃した若者は、その後2年以内に自らが重大な犯罪を犯す割合が約2倍になるという。

実験のために被験者を銃犯罪に巻き込む訳にはいかず、ランダマイズによる統計的な因果関係を立証することはできないが、傾向スコアを層化マッチングさせたことで、高い信頼度で因果関係を推定している。

余談だが、Earls教授は、WillsonとKillingによる有名な「割れ窓理論」を実証的に否定した*2。彼が"Collective Efficacy"を提唱した論文*3にて、犯罪は割れ窓にではなく、貧困の集中度合いとCollective Efficacy(集団的効能: コミュニティの人々自身が地域をよくしようと行動すること)と結びついているとした。現在環境犯罪学で最も活躍している人物の一人である。


ドラマでの取り扱い
ドラマでは、7歳の男の子が、付きまとう同学年の女の子を射殺してしまう。主人公である検察・警察側は、7歳の少年とはいえ殺意があったと立証するのだが、この少年が実は銃犯罪を目撃したことがあると発覚する。そこで弁護側はこの研究結果を基に、「銃が犯罪を伝播させ、この少年に銃を撃たせたのであって、少年自身に責任能力はない」との論を展開する。そこへ銃業界が、前述の厳密な因果関係の未立証などを争点に異議を立てて… 

最後は意外な展開となるのだが、それは伏せておこう。


銃社会アメリカ
言うまでもなく米国は銃社会で、合衆国憲法の修正第二条で銃を持つ権利が認められている。銃を規制すべきかどうかは、深刻な銃犯罪が起きるたびに取り上げられるテーマだ。ブレディ法など、銃規制に向けた動きも古くて新しい。

人々の生き方や信念に関わるものであり、銃規制はそう簡単には進まない。全米ライフル協会が共和党の有力な支持基盤となっていることも大きいと言われる。銃自体が犯罪の現況かどうかは、煙草の害悪や気候変動と同じく(或いはそれ以上にセンシティブに)、科学者が論を対決させつつ、時間をかけて社会的な合意が形成されていくものなのだろう。


負の伝染力
この種の、伝染病のように社会的に何かが伝播するというのは、様々な分野で見られているようだ。以前研究者交流会でハーバード公衆衛生大学院の友人が発表していた、「肥満は伝染する」という話とは非常に共通するものがある。幼児虐待を受けると、自分の子供にも虐待をする可能性が高くなる、という話もよく言われる。他にも喫煙(禁煙)が伝染する、社会的に経験が伝播する、雰囲気が伝播する、人のあくびが犬に伝染する、というのはよく耳にする。

メカニズムは個々に異なるのだろうし、私は浅学にして判らないが、不幸な現象がパンデミック(爆発的な伝染病)的に広がるという仮説が広まること自体が、人々にそれが所与のものと思わせてしまい、感染力を一層増しているのかもしれない。

企業などの組織であれば、不正や非倫理的な行動をとる者がいたら、強権的に排除するだけではなく、現場の自助努力で再発を防止させる、草の根の努力が必要だ。不正を見た者がやがて不正を行う、という伝染力を防ぐには、Collective efficacyを不正者が出た組織にもたらさねばならない。火種が小さいうちに手を打たねばならない。問題児を放り出して臭いものに蓋、というのは問題解決になっていない。


それにしても、組織や社会のメカニズムとは、実に面白く深い。

*1 Earls, et al., Science 308, 1323 (2005)
*2 "Collective Efficacy" 参照
*3 Earls, et al., Science 277, 918 (1997)

参考
New Scientist 2005/06/04

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by flauto_sloan | 2008-07-23 22:34 | NYでの生活
拠って立つもの
渡米して一年、ひたすらにインプットをし続け、それを咀嚼し、自分の経験や知識を分析し綜合し、それが自分の生にどんな意味があるのか、否、自分の生にはどんな意味があるのか、を問い続けている。

お陰で大分、昔のように頭が回転するようになったのだが、理論やフレームワークの類で自分を理性的に分析していくと、当然割り切れない何かが残る。この何かというのが厄介で、感情と言うのだろうか、コギトというのだろうか、妬みや諦め、自惚れや慈しみ、利己心や使命感、色々なものがない交ぜになっている。

その感情すらも、何故そんな感情を持つのか、と何故を繰り返していくと、薄々感づいている自分の弱さや過ちが見えてきてしまう。


自分がどのような人間でありたいのか。

目標をダ・ヴィンチのような全能者に据えてしまっていると、自分とのギャップしか見えてこない。そこまで行かなくても、周りで成功・活躍している人、頑張っている人を見ていると、安穏とした自分との差が見えてくる。

ギャップがあるならば、それを埋めるよう努力するか、ギャップをギャップのまま諦めるかが基本方針だ。自分は全能ではないし、体力精神力の個体差もあるので、結果として努力するものと諦めるものを峻別しなければならない。


だが、どうやって峻別したらいい? 何が判断基準となろうか。

金銭的・物質的豊かさ? 貧困撲滅のような人道的善行? 科学的真理の探求? 美学音楽的美しさ?

これこそが自分自身で選ばなければならない価値選択で、答えなどありはしまい。どれを選んでも、同じ判断基準を選んだ人の中では競争に晒され、異なる判断基準を持つ人には蔑まれるか羨ましがられるかだ。

哲学を学んでこなかったのが悔やまれる。宗教だろうと信念だろうと、一本筋を通して生きている人は強い。

これまでに私は、ふらふらとこれらの判断基準の間を中途半端に揺れ動いては、競争に疲れ、他者を妬み、一度捨てた他の選択肢を拾い直してきた。

フルーティストを諦め進学し、科学から離れビジネスに職を持ち、仕事をしつつも社会貢献に興味を持ち…

強いて良い所を挙げれば、一通り見てきた、ということか(人道的善行はまだ入り口だが)。ただこのままでは深みと熱さに欠けてしまう。


30は而立であって、もう迷ってはいられない。結局自分が本当に信じられるものは何なのか。捨てざるを得ないものはなんなのか。捨てるにしてもその喪失は減じられないか。

これまでの選択の経験から、学んだものはある。モラトリアム的選択肢ばかり選んでいて、含み損となっていた喪失を「損切り」するのが怖くて向き合えなかっただけだ。ようやく最近、向き合い、学びを抽出する覚悟ができてきた。

こうして厳しい問いを自分に投げ続けているのだが、心の奥の何かが、まだ泣きながら駄々をこねている。而立のタイミングでこの結論を出すための2年間があるのは、天佑だろう。

本当はどれを選択するのかもう決めているのだろうが、この駄々っ子が泣き止まないので、もう少し悩んでいたい。
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by flauto_sloan | 2008-07-17 05:54 | Mens et Manus
リーダーシップの和洋
ごく最近、刺激的な本を2冊読んだ。一冊はハーバード・ケネディスクールを代表するロナルド・ハイフェッツ教授の『最前線のリーダーシップ』であり、もう一冊は安岡正篤先生の『先哲が説く 指導者の条件』である。どちらも「リーダーシップ」がテーマであり、和洋の違いによる体系化の違い(特に「する」ことを重視するか「である」ことを重視するか)はあるものの、内容的には共通しているものが多く、面白い。リーダーシップに対する二つの異なるアプローチの相違を通じて、日本で経済・ビジネスにおけるリーダーとして何を心がけるべきかを考えるのに役立つ。

R.ハイフェッツ『最前線のリーダーシップ』
ハイフェッツ教授の授業に感化された、ケネディスクール及びMITスローンの日本人学生が翻訳した名著であり、リーダーシップが如何に危険であるか、そこで生き延びるためにどのような方法を執るべきか、そして生き延びつつリーダーシップを発揮するためにどのような心を持たねばならないかを説いている。

「リード」とは、もとは「前進するために死ぬ」という意味だそうだ。リーダーシップは、高い価値観や新たな環境に自分と周囲を適応させる作業であり、その過程で人々に価値観などの喪失を求めるため、危険(4つのリスクに分類)を呼び込む。それから生き延びるためには、バルコニーに上がって全体観を見渡したり、熱気を調整したり、攻撃を甘受したり、といった5つに体系化された手法を上手く駆使せねばならない。そして前に進み続けるために、渇望をコントロールし、役割と自己とを区別し、いつか事態は好転するという確信と神聖な心を持って事に処し続けねばならない。

リーダーシップという、一見捉えどころがなさそうなものを、筆者やケネディスクールの学生など多くのリーダーの経験(主に失敗体験)を題材に、著者の専門である精神医学、音楽、政治学、メディアの視点を綜合して体系化した、実践的で虚飾のないリーダーシップ論だ。KSGの友人IkeさんやSlaon/KSGの先輩konpeさんのブログでもたびたび紹介されている。

読了後に、魂を揺り動かされるような衝撃を受けた。リーダーシップとは何か、自分はこれから何を為し、どうあるべきか、これまでの30年を見つめ直し、これからの50年を見据える為の、内なる問題提起をされた。佳書であり座右たるべし。


安岡正篤『指導者の条件』
東洋思想研究の第一人者、安岡正篤の手で、江戸時代の『水雲問答』『熊沢蕃山語録』を題材として、指導者に必要な資質と考え方を論じている。特に『水雲問答』は上州安中の板倉勝尚候と大学頭の林述斎との間の往復書簡であり、和中の様々な学問からの洞察が深い。

ハイフェッツのような体系化はされず、様々な思想の枠組みが並存しているが、それらを統合して知識から見識を練り上げていくという、日本的な思索アプローチ(或いはソクラテス的手法)が執られている。
特に感じ入ったポイントを列挙すると
  • 「識」には知識・見識・胆識の三つがあり、胆識を鍛錬するところまで至ってこそ指導者たりうる。知識は単なる情報で値打ちがない。見識は知識に加え、体験や英知に基づき価値判断を伴うもので、見識があって初めて人物たりえる。胆識とは実行力を伴う知識・見識であり、抵抗や困難に臨んだ際に敢然として断行し得ることである
  • *1から禍というものが思いもよらず自在に起こってくるもので、権力を私物化するといけない。公平にして権力を握れているうちは禍は起きないので、権というものは握れれば早く握り、(私心が生まれる前に)早く脱けた方がよい
  • 要職にあっては、任怨と分謗が重要である*2。重責を断行すれば、必ず怨まれるが、それに怯えては何もできない。「よろしい、私は断じて我が道を行く」という怨に任じる気概が必要である。また同僚の間で、反対側からの謗りを分かち、自分だけ良い子にならず襟を正さねばならない

和洋のリーダーシップ論から何をすべきか
権力は危険で禍を招くものであるので(リーダーシップに伴う危険)、生き延びるためには忠厚でありつつも任怨と分謗でなければならず(全体像を掴み、政治的に考え、当事者に作業を投げ返し、攻撃を受けても踏みとどまる)、そのために知識を見識に高め、胆識を鍛えねばならない(心を見つめる)。という論は、ハイフェッツとよく似ている。

が、ハイフェッツが「生き延びるためにすること」を説くのに対し、安岡は「指導者であること」を説き、結果として志を遂げられないことは君子でもあり得る天命だと捉える。

この、儒教および日本の道徳に則るリーダーシップ論自体が、最早前提が成り立たない、適応の過程で喪失してしまう価値観なのかもしれない。或いは逆に、功利主義からの揺り戻しが始まっている中で、むしろ改めて建設的に価値を認められる論なのかもしれない*3

科学を学び、多様な価値観・宗教観の世界で働いていきたいと考えている私にとっては、ハイフェッツのアプローチと結論がしっくりくるのだが、日本人のアイデンティティを保持するためにも、先哲からの教えも同時に(矛盾を抱えていても)抱擁していたい。


さて、ここまででは書物からの知識でしかない。見識を身に着けるべく、さっそくこれまでの学問および実務にて学んだ経験をハイフェッツ/安岡的リーダーシップの枠組みで照らし直してみた。ようやく、これまで直視できなかった失敗体験と向き合い、過去を歴史的な経験とし、将来の自分の糧とすることができたと思う。

次に私が為すべきは、このリーダーシップの学びを如何に実践し、さらに学びを深めて見識と胆識を養うかだ。それはMBA在学中だけではなく、卒業後実社会に戻ってからの重要なテーマであるのは間違いない。


*1 権とは秤の分銅のことであり、竿が衡である。竿が平ら(衡平)となる時が正であり、正から見て権が当てはまるのが義であるから、正を得て妥当なのが正義である
*2 『三事忠告』より
*3 ただし、人や自然が何のためにあるのか、どうあるべきかといった目的論的世界観を復権することで、機械論的科学が停滞してはならない

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by flauto_sloan | 2008-07-16 22:04 | Mens et Manus
根拠のない自信
今日はボストンを訪れているオーケストラの友人と再会した。彼は三谷先生に師事していて、先日の記事を見て、ボストンで私と三谷先生が出会ったのに驚き、是非三谷先生を囲んで食事をしよう、と誘ってくれた。

この楽しく刺激的なディナーと、続く飲みにて、「根拠のない自信」の大事さを思い出した。


ディナーは三谷先生と教え子二人、そして私の4人で、ボストン最古のレストラン Union Oyster で食べた。

三谷先生はこのボストンでVogel先生を始め様々な人との仕事を通じて、日本人(特に学者)はもっと外へ目を向け胸を開き、東アジアとしての自覚と意識を持つべきだとの考えを、より強く思うようになったそうだ。

また、ハーバードと比べた時の東大生の不甲斐無さと勉強量の少なさを嘆いておられた(私も以前紹介)。安藤忠雄が東大の入学式で「猛烈に勉強していただきたい」と言ったことがニュースや話題になる事態が間違っている、と熱弁。

他にも様々な持論の展開が止まらない。さすが「駒場のサムライ」の異名をとる三谷先生だけあり、色々と学ばせてもらった。そして熱気に感化される。


ディナーの後は、友人を家に招き、さらに今ボストンに滞在している会社の後輩も呼んで家飲み。この二人は大学の歌劇団で一緒だったらしい。3人揃って演奏したことこそ無いが、共通の友人は限りなく多い。音楽の話、サークル時代の話、恋愛の話、などなど色々話し、久しぶりに学生の頃のように飲んだ(今も学生だが)

そう学生のノリで、酒をあおりながら馬鹿話や真面目な話をしていくうちに、学生の頃のような気分になっていった。根拠のない自信というか増上慢というか、「日本でもボストンでも世界ででも何でもできる」、そんな気分になった。懐かしい感覚だった。

こういう根拠のない自信は、いつ失くしてしまったのだろうか。

苦悩し挫折し打ちひしがれ、「現実を知った」とシニカルに嗤う頃には、もう失くしてしまっているのだろう。だがそれは、幼い感情だから大事なのではなく、生命の純粋な原動力だから大事なのではなかろうか、そう、ふと思った。

ちょうどディナーの席でも、三谷先生が誇らしげに「根拠のない自信」と仰っていた。それが世界中でエネルギッシュに戦い、仲間を作っている原動力だと映る。

それは「これをやった」という結果に対する自信よりも、「ここまでやれた、ここで生き延びた」という過程に対する自信なのだと思う。先生の場合はそれがゼミでありインドだったそうであるし、私も大学受験前日に、それまで使った参考書や問題集を積み上げて「ここまでやったのだから大丈夫」と言い聞かせて自信をつけた。

この「根拠のない自信」が、今の自分に必要なのだろう。せっかく思い出したのだから、忘れないようにしてみよう。結果に拘らず、ボストンで刺激的な二年間を生き延びることに拘ってみよう。


気がつくと朝だった。後輩の姿は既になく、横では友人が豪快に寝ていた。グラス類は後輩が片付けてくれたようだ。そして3人で消費したとは思えないビール瓶の数…

それはそれはヒドイ二日酔いだった……

ひとまず、肝臓への自信は早くも失った。
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by flauto_sloan | 2008-07-15 23:46 | 交友
誕生日
誕生日を迎えた。残念ながら妻が帰国中なので一人だが、スカイプで妻や家族にお祝いを言ってもらうと、距離の遠さを感じない。

メール、mixiやFacebookでお祝いのメッセージを友人たちに貰う。いや嬉しい限り。これらSNSの誕生日通知機能は、しばらくメッセージのやり取りをしていない友人と繋がり直す良い機会だ。何気ない

"Happy Birthday!"

の一文だが、これが沢山届いていると、花束に包まれたような心地になる。


そんな誕生日は、一日病院にいた。ものもらいが出来てしまったためだ。予約無しだったが、学生の少ない夏休み中だったので比較的待たずに受診してもらえた。

受付では毎回、本人確認のために氏名と生年月日を答えるのだが、そんな時に

"My birthday is today"

と言うと、皆 "Oh, happy birthday!"と微笑んでくれる。なかなか楽しい一日だった。
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by flauto_sloan | 2008-07-14 22:33 | ボストンでの生活
J.S.バッハと初音ミク
流行り廃りはこのブログに書かないようにしているが、このテーマは面白いと思ったので残しておく

「初音ミク」を始めとしたボーカロイド技術と、「ニコニコ動画」という作品の発表・評価・研究の場によって、人の声を奏でる電子/ソフトウェア楽器は表現力を増している。クラシック音楽では様式自体が美しいバロック音楽や宗教音楽が、ボーカロイドと相性が良いために作品として発表されやすく、「ボカロクラシカ」というジャンルを確立し演奏者を増やしている。さらにニコニコ動画の聴衆参加機能により、鑑賞しながら歌詞や音楽の解説をリアルタイムで見ることができ、クラシックの敷居を下げる教育効果を期待できる。この二つの技術をプラットフォームとして活用すれば、クラシックの裾野拡大の一助とできるのではないか。


ボーカロイド技術の向上
初音ミク」を中心としたボーカロイドについては、詳細な説明を省く*1が、楽器としての重要なポイントは、人の声を音源とし、歌詞を乗せることができ、表現の自由度が高いことにある。特に前二項目の技術進歩が大きい。古来より楽器は人の歌声を究極目標としていたという話を聞いたことがある。ならばボーカロイドは楽器の到達点にだいぶ近づいたのかもしれない。日経など各種メディアの耳目も引いている。

「初音ミク」は市井の音楽愛好者に新たな表現手段を与え、さらに「ニコニコ動画」という発表の場があることで、創造的な音楽作品を生み出している。

日本の教育水準だと、ピアノなどの音楽教育を受け、PCソフトを使い慣れている人口はそれなりに多いだろう。そんな一般人の潜在的な渇望 = 自己表現をして賞賛を浴びたい = にこの楽器はぴたりと適している。

そんな潜在的音楽家の発表の場が、「ニコニコ動画」である*2。多くの人が楽器で好きな歌や、自ら作曲したものを作品として発表している。聴衆が動画へコメントを残せる機能により、評価をすぐに受けることができる。人気曲となると百万アクセスを超え、商業化されるものも生まれている*3。ただし初期の作品の質は正に玉石混交だった。


共同作業プラットフォームとしての「ニコニコ動画」
作品の質・技術の向上にはこの「ニコニコ動画」が大きく貢献した。コメント機能を介してユーザー同士が作品に対して意見を出し合い、アイディアを採択し、試行錯誤を繰り返すという共同作業*4を行うことで、表現技術が飛躍的に向上している(参考: WebLab.ota)

これら共同作業者は、金銭的利益ではなく、自然発生したコミュニティ内での貢献と賞賛のために自分の意思で参加している。人気の高い動画は、再生数やコメント数上位に来るためにすぐ明らかになる。そこでコメントを残すと、その動画への愛着とゆるい連帯感が生まれ、コミュニティが自然と生まれる。

初音ミク関連でもそうしたゆるいコミュニティが生まれ、LinuxやWikipediaなどと同じく、参加者が自発的に貢献してコミュニティ自体が発展し、技術が改善されていった*5さらには産総研の技術者も着目させ、人の声に大きく近づける新技術まで表れた(参考: ぼかりす)


クラシックに於ける取り組み
「初音ミク」が歌う歌はポップスやアニメソングが多いが、クラシック音楽、特にバロック音楽を歌わせる表現者も現れている。誤解を恐れず言えば、バロック音楽(や教会音楽)は構造が堅固で様式それ自体が美しいため、微妙な音色、音量やテンポの変化が無くともそれなりに聴くことができる。そのためロマン派などに比べると、ボーカロイドによる表現が馴染み易い*6

歌詞が不要で手軽なオルガン曲の演奏に始まり、最近はバッハの「ロ短調ミサ」や「マタイ受難曲」といった大曲までもが歌詞付きで演奏されており、「ボカロクラシカ」というジャンルを築きつつある。現代曲でなければ著作権も切れているため*7、ネット作品に付き物の権利トラブルも少ないだろう(楽譜の版によるものはあるのだろうが)。


聴き手の参加による教育効果
そして私が最も面白いと思ったのが、その「マタイ受難曲」である(私が最も好きな曲の一つ)。これまでは「如何にクラシックを初音ミクで演奏するか」が主な問題だったが、この動画では動画故の視覚的な表現、リアルタイムで付随する歌詞、そして何より、背景知識や音楽知識のある聴き手が解説を盛り込んでいる点だ。

c0131701_15584562.jpg第一曲の演奏を観ると、声域ごとに色が異なる初音ミクが合唱で歌うっているのだが、画面下部に表現やバッハの意図に関するコメントが表示される。これがなかなかにしっかりしていて面白いのだ。

例えば少年合唱(幼い初音ミクの画が対応)が登場するシーンでは、直前に
[「Lamm; 子羊」の語を聞きつけて、コラールが登場します]
という解説が付く。他にも調性の意味など、クラシック初心者にも分かり易く書いている。その結果、初めてマタイを聴く人でも音楽を深く理解することができ、興味に繋がる教育効果(そんな堅苦しい言葉は不似合いだが)がある。

クラシックの敷居の高さは何段階かあるが、その一つはこうした構造・様式や作曲者の意図の難しさにある。これは一度知ってみると、その奥深さに惹かれて病み付きになるのだが、誰か先達がいないと判らない。かといってクラシックをあまり聴かない人がバッハについての本など手に取りはしない。

様々なクラシックファンが訪れるこの「ニコニコ動画」は丁度良い音楽教育プラットフォームとしての可能性があるのではないか、と思う。巨大な「初音ミク」コミュニティの中を巡回している人がボカロクラシカを聴いて、よく知った聴衆のコメントから深い音楽性まで理解する。そこで興味を持ったらCDやコンサートへと進むこともあろう。

音楽は初音ミクである必然性は無く、「マタイ」のDVDなりをキャプチャして、そこへ書き込んでも効果は同じだ。だがそれではコアなクラシックファンが相互に理解を深めるだけで、カバレッジの拡大は小さいと思われる(著作権の問題もある)。マニアを呼び込み、共同作業的な教育をするにあたっては、実際の映像よりも初音ミクの方が閲覧者の習慣や文化に「馴染み」やすく、またあまりクラシックを聴かない人も(興味本位だろうと)閲覧しやすい。何より、教育は楽しくなければならない(ウォルト・ディズニーの言)のだ。


日本のクラシック人口拡大への期待
つまりボカロクラシカは「初音ミク」「ニコニコ」の組み合わせ故に、間口の広さでカバレッジを拡大でき、教育効果によってクラシックに新たに関心を持った人をコアなファンへ引き上げることができ、日本のクラシック人口拡大に寄与できる可能性がある。

勿論、表現技術や音色、合唱の薄さや他言語への対応、「荒らし」対処など、まだまだ改善点はある。だがそれよりもクラシック音楽愛好家の裾野を広げる手段としての機会に着目すれば、この新しい技術で色々と面白いことができそうだ。


参考
J.S.Bach BWV244『マタイ受難曲』第一曲 "Kommt, ihr Tochter, helft mir klagen"
ニコニコ動画版(ユーザー登録が必要)
YouTube版(ニコニコのものを転載。ただしコメントなし)

*1 初音ミクの「萌えキャラクター」としての側面は、ユーザーを刺激する重要要素だが、ここでは言及しない
*2 YouTubeとの比較や、双方向の動画コミュニティとしてのニコニコ動画の役割など、プラットフォームとしての詳細な考察は省く
*3 商業化に際しては、著作権の取り扱いで騒動があった
*4 『フラット化する世界』のドライバーとして、共同作業のプラットフォームは極めて重要である。プラットフォームの優秀さとしては、リアルタイムで議論できる分、YouTubeを遥かに凌いでいる
*5 個人参加のネットワークによる共同作業であり、コミュニティが参加者の過多で決まることから、まさに『Future of Work』といえる
*6 ロココへの対応はあと少しか。モーツァルト『魔笛』の夜の女王のアリアを演奏したものがあり、難なく出る(当然だが)High Fなどなかなかよくできているものの、アーティキュレーションを細かく表現するところ(あとは他言語への対応)までは更なる技術の向上が必要だと感じる
*7 ちなみにジョン・ケージの「4分33秒」の演奏もある。当然だが完璧に再現している

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by flauto_sloan | 2008-07-13 14:11 | 音楽・芸術
Tanglewood 音楽祭 - Haitink/BSO
c0131701_1337560.jpgTanglewood Music Festival へついに行ってきた。昨年はボストンに来たのがオリエンテーション直前だったため機会がなかったが(代わりにNYフィルがNYのセントラルパークで演奏するイベントには妻と妻の友人と参加して来た)、今年は何度か行けそうだ。

タングルウッドでのピクニック
c0131701_13381270.jpg残念ながら妻は帰国中で参加できなかったが、ボストン在住の日本人の友人とピクニックを兼ねて一路ホールのあるLenoxへ。開場と同時に入場し、舞台に最も近い芝生席を陣取り、皆で持ち寄ったご飯を広げてピクニック。食後はフリスビーなどで遊んで開演を待つ。

c0131701_13385387.jpg途中で、小澤征爾ホールにてピアノ5重奏のコンサートがあった。木造の可愛らしいホールで奏でられるアンサンブルは、なかなか緻密だった。食後の心地よさを誘ってしまったが。

ハイティンクのマーラー
指揮者はベルナルド・ハイティンクで、曲はマーラー交響曲第2番「復活」だった。魂が震える程とまではいかないが、BSOも好調で名演だった。冒頭を初めとした低弦の緊張感、木管の歌わせ方と絡ませ方といい、ダイナミクスの幅といい、しっかりと作りこんでいる。大きな意外性やテンポの変化は少ないが、緻密なマーラーだった。

c0131701_13394114.jpgそしてやはり「お祭り」だ。楽団員は白服を着ており、そこもまた非日常さがあって好い。芝生席ではワインやビールを飲みながら聴いている。マサチューセッツ州は屋外での飲酒は禁止されているが、タングルウッドは例外とされているので、日本の花見感覚で皆楽しんでいる。

場所が屋外なので(私は屋根付きの席で聴いたが)、シンフォニーホールにはない雑音(駐車場からのクラクション音など)はあるが、そこはお祭りなので気にしない。ただ気になるものもある。歌のソロはマイクを使っていたため、舞台に近い席でもスピーカーから聴こえてくる。そのため音質と音量のバランスが崩れてしまい残念だった。とはいえ、歌の出番は少ないため、総じてマーラーの音楽を楽しめた。


次は来週の五嶋みどり。これも楽しみだ。
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by flauto_sloan | 2008-07-12 23:54 | 音楽・芸術
『知的生産の技術』とブログ
にも書いているが、このブログは、私個人の学びを目的に書いている。学ぶ(修めた学びを蔵し、蔵した学びを息す)にあたって、現時点でこの「ブログ」という媒体が非常に有効だと判ったからだ。

梅棹忠夫氏のロングセラー、『知的生産の技術』(岩波書店)は、知的生産活動に関わる個人が、如何に知識・情報を整理して学びに結び付けるかを、その必要性、目的・意義と共に方法論として展開した名著である。昨年MITメディアラボの石井先生の講演会で、石井先生がこの本を必読の書として挙げていたため、早々に読んで感銘を受けた。

書かれた当時と現在とでは技術の進歩が大きく異なるために、古いと感じられる主張(英文タイプライター時代であるが故の日本語ローマ字表記論など)もあるものの、『京大式カード』として商品化された、インプットをカードにアウトプットするというプロセスおよび整理法は時代を超えて有用だし、むしろ技術の介けを得て利便性が増した。

その新たな形態が、ブログだと考える。

ブログを書く理由・動機は人により様々だ。日記、社会貢献(またはその逆)、転職または採用のツール、情報の整理、商用、等々。私は知的生産のツールとして利用している。換言すれば、ブログの記事一つ一つを梅棹先生の提案した「カード」として取り扱っている


物理的な「カード」より優れた点は、構造化のし易さと分類・検索容易性だ。

トラックバックや記事間のリンクによって、ある時考えたことが後にどう発展したか、異なる経験が結びついてどのような考えを醸成したか、といった知識と見識との間の構造化が簡単にできる。

タグやカテゴリによる分類は、雑多な考えの羅列から、一歩引いた見識を構成する際にとても役に立つ。ただし梅棹論にあるように、始めから整理した分類をするつもりはないので、タグやカテゴリ自体時折見直して括り直している。

また、後から経験や自分の考えを振り返りたいとき、検索をすればすぐにその時の記事が出てくる。

(ブログの記事は「カード」なので、公開したくない、あるいは公開が憚られるカードも多く存在する。そんなものは非公開設定にしている。実は自分の整理のための非公開記事は結構多い)


一方で、やはり紙にかなわないものも多い。読み安さ、簡便さといったものもあるが、何より紙上では二次元で考えの広がりを自由にできる。従って、全ての学びをデジタル化することはなく、紙で残す学びは多い。そんな時、このブログは「カード」として、その紙を参照する時のナビゲーター役をする。

私は絵や図で二次元(或いは三次元)に自由に考えを構造化しつつ書いていき、徐々に深めていくタイプだ。だから何か思いつきたいとき、或いは授業や学問の全体観を理解したいときは、まず紙に色々と書き散らしながら試行錯誤し整理していく。PCではそうはいかない。パワーポイントで似たようなことができるとはいえ、スピード、自由度と細やかさが全然異なる*1,*2

このあたりを、共同作業の効果と効率と絡めて、メディアラボを始めとして世界中の様々な研究者が取り組んでいるのだが、一般人レベルではやはり紙が一番安くて有効だ。


人の知的活動がリアルである以上、リアルとバーチャルの並存は止むを得ない。このブログを現時点で最大限利用しても、紙はいつまでも残る。後でそのまとめシートを参照するときのために、ブログの記事でポイントを書いて残している。


そういった限界を知りつつも、知的活動の手段としてブログは非常に有効で魅力的だ(まあ音楽記事などは殆ど日記に過ぎないが)。自分の学びを遺し深めるという利己的な目的意識が、忙しくもブログを書き続けている動機*3となっている。現在における「知的生産の技術」としてブログを利用することをお勧めする。

(なお、勝間さんの本は未読なのだが、同じような論点なのだろう)


*1 人類は手を使うことで脳を活性化・成長させるという説もあるので、手書きによって考えや理解が深まるのは強ち嘘ではないだろう
*2 ビジネスにおける知的生産活動の一翼たるコンサルティングの職場でも、手書きに拘る人は結構多い。結局その方が早くよいアイディアが生まれるということの一つの証左といえよう
*3 同時に、記事によって非公開にしたり、過去の記事を振り返り改変したりという偏狭な活動の理由でもある

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by flauto_sloan | 2008-07-12 03:15 | 学びの技術