MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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結・MIT Sloan 遊学記を終えて
学問の四焉(修焉、蔵焉、息焉、遊焉)の境地のどこまで至っただろうか。
知識を見識に引き上げ、胆識を養うに至っただろうか。

答は、わからない。
答が出る類の問いであるのかも、わからない。

だが、好奇心をもって知識を吸収し、自分の頭でとことん考え、自分の肚で勇気を生み出し前進することを学んだ。いや、自分という袋の中をまさぐって、引き上げて向き合ったというべきか。

その過程で、遊焉とは何であり、胆識とは何であるのか、それを垣間見、そこへ進む勇気と歩みを得られた。
不要な執着から自由になり、その自由が伴う責任を受け入れる覚悟ができた。

この学びと成長が本物かどうかは、帰国して実践することで、5年ほど経ってふとわかることだろう。


この2年間を生き延び、人間として少しでも回復し成長できたのは、家族と友人に拠るところが計り知れないほど大きい。また、留学の機会を与えてくれた会社にも感謝しており、きっちり御恩返しをするつもりだ。
そして、このようなブログの約540件の記事に興味を持って読んでいただいた皆様には、書き始めたときには予期していなかったような励まし、関心、助言等を頂き、感謝の念に堪えない。

こうした、面識のあるなしにかかわらない、人と人との無限のつながりにまた、大きな可能性と学びと成長の機会を感じる*


遊学を終えたら、学ぶことが終わるわけではない。
むしろ、学ばねばならないという必要性と、学びたいという好奇心が強まるばかりだ。

遊焉の境地を想うがゆえに、遊学はまだ続く。


* 卒業後の足取りを、別のブログにするかどうかは未定だ。
仕事の内容を書くことはないだろうが、日々の学びを書き識すものは作るかもしれない
そのときは、またお目にかかれることを望みたい

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by flauto_Sloan | 2009-06-08 22:21 | Mens et Manus
振り返りと抱負 - Cum Mens tum Manus
実り多かった2008年も終わり、いよいよ帰国の年2009年だ。この1年を振り返り、今年の目標を立てたいと思う。

2008年を省みる
学ぶことを学び、考えることを考えた一年
c0131701_039954.jpgこの一年間、授業や課外活動で、非常に多くのことを学んだ。

経済学、システムダイナミクス、リーダーシップ、交渉術、ファイナンス・・・ だがそれらを振り返ると、結局のところ学ぶとはどういうことか、ということを学んだのだと思う。

経験はそれ自体必ずしも学びではなく、そこへ自分の信じる、きわめて個人的な何らかのモデル(もしくは信念)を適用して分析し(これが反省というものだと思う)、モデルを追認するか、期待値を現実に引き寄せるか、アノマリーを見つけてその理由を考え、モデルを更新することで、学ぶことができる。その差分である学びの蓄積が、自己を形成し、社会との関わりへの自由度を増す(より広範な選択肢を持ちうる)のだと思う。

社会に出てからは、当てはめるべきモデル(価値規範、哲学、将来像等々)がしっかりしていなかったがために、コンサルティングによる豊富な経験をしておきながら、「学んだ」という実感がなかった。経験を経験として消費していただけだった*1

今は失敗も成功も、経験を糧として追体験し、学ぶだけの余裕と知見を得た。上手くいったプロジェクトを振り返って自信を取り戻し、失敗したプロジェクトを直視して、なぜ失敗を免れなかったのかへの想像力が少しばかりつくようになった。


そうして学ぶことを学ぶと、次に考えることを考えるようになった。考えるとはどういうことか、考えることの限界はどこにあるのか。まだまだこれについては考えがまとまらないが、やはり世界をある一定の前提の下で、あるモデルへと捨象することで、問題に対する答えの仮説を構築することなのだろう、と思う。だがそのモデルは二元論的、還元的であっては最早現実に追いつかず、全体知を同時に得られるものでならねばないだろう。

システム・ダイナミクスはその点で非常に優れたモデルだと思う。世の中には限りない幅があり、善悪や白黒の二元論で考えることは、効率性のために妥当性を犠牲にしている。「ポジションを取る」と謂われる強い判断を繰り返していくことは、スピードを得られる一方で、真理とのギャップが摩擦を生む*2。真実は善悪の狭間に、という単純な直観と思考の柔軟性が必要なのだろう。創造性は対立構造を止揚することで、往々にして得られるのだから。


そうして考えることを考えていくと、伝えるべきことをどう伝えるべきか、という最後の問になる。どんなに正しいと思われることを考えても、正しく伝えて人を動かせなければ、意味がない。ここで、コミュニケーションやリーダーシップからの学びが重要になってきた。

自分の考えを敷衍していくためには、自分の考えを相手が受け入れてくれるような環境・構造を作り、受け入れてくれる相手の思考や価値観を知り、効果的な手段で伝えなければならない。特に最初に揚げた環境や構造をどう作るのかというのが非常に重要だが、これが一番難しい。どうやって人の認知に入り込むか。

ここで、私の生来の興味である、嘘とは何か、という興味に立ち戻った。嘘とはなんだろうか、効能、手法、評価(社会的、宗教的)と、考え始めると興味深い。このあたりが今後の興味分野となるだろう。


真に愛するものとしての音楽
c0131701_0404724.jpgNYにボストンと、数多くの演奏会に出向いた一年でもあった。音楽を聴き続けているうちに、改めて自分が音楽を本当に愛していること、良い音楽を聴くと理屈抜きに喜びを感じていることを知った。

そしてリーダーシップの授業を通じて、音楽の持つ深く強い力を確信するようになった。人間の本能的活動を、磨き鋭くすることは、人間本来の力を強めることでもあるのだろう。そして個人としての能力を高める日々の鍛錬は感性を研ぎ澄まし、全体としての響きや表現を高めるための合奏は、理屈ではない本能的な協調能力を育むのだろう。

では私は今後音楽とどのように関わっていくべきか。それが大きな問として、今自分に投げかけられている。


漂泊の中に見出す生
c0131701_0514191.jpg妻と夏休みを中心に、数多くの旅に出た。北米・中米の大自然と、そこでの人の営みの違いを目にし、体感し、生きるとはどういうことなのかを考えさせられた。過酷な自然と豊穣な自然、その中での人々の生活と感性・価値観との関係は、単純化できないものの多くの智慧を与えてくれるように思える。

中西部の荒々しく広大な大地に対するインディオの崇敬、プリンス・エドワード島の美しく豊かな自然から生まれる文学、モントリオールの鮮やかな山々とゆったりと満ちた生活、テキサスの広大さと歴史からくる自立心・・・ 旅をすることの面白さをつくづく実感した。

そして何より、妻と素晴らしい時間を過ごせたことは、我々夫婦の忘れがたい財産だ。


恋人から伴侶へ
c0131701_0503626.jpg妻が一足先に卒業し、今年は比較的余裕を持って二人でいられる時間が長かった。恋人気分に溢れた新婚生活から、生涯の伴侶との夫婦生活へと脱皮した一年でもあった。

二人で多くの音楽を聴き、旅をし、美味しいものを作り、二人での時間を積み上げて行った。くだらないことから真面目なことまで、色々な話をして、妻の新たな一面を多く発見した。そして改めて、この人と過ごせる人生を喜び、出会えたことに感謝する。

帰国後は、一緒にいる時間は少なくなってしまうだろう。子供や健康など、色々と不確定要素もあろう。だが、この人となら乗り越えられる、そう確信できるだけの信頼をお互いに得られたと思う。


交友と好奇心
c0131701_055433.jpgボストンでは、ボストン日本人研究者交流会の幹事として、リーダーシップの実践と交友の拡大を行えた。
幸運にも今年の活動指針が大当たりして、毎回通常の2倍ほどの参加者に恵まれている。お陰で数多くの人と知り合えたし、また自分の好奇心をどんどんと育てることができた。

また、他の幹事や参加者がどれくらい変化を許容できるのかを読みながら、少しずつ会を変えていったのだが、これはまさにハイフェッツ教授のリーダーシップ論の実践に外ならなかった。今のところは大成功なのだが、今年の残りがどうなるかはまだ予断ならない。

好奇心の重要性をつくづく感じるが、こと社会に出てからは仕事に忙殺され、好奇心を失い続けていた。この一年で数多くの講演の拝聴、旅、交友をする中で、本来持っていた好奇心を取り戻し、それをさらに成長させたと思う。他の人がどんな考え方を持っているのか、それは何故私のものと違うのか、違うことをどう捉えるべきか。聞くことと訊ねることの重要性を改めて知ると共に、学び考え生きるための原動力としての好奇心を育てることができた。せっかく取り戻したのだから、仕事に戻ってもこの好奇心を再び失うことのないようにしなければ。


2009年の抱負
c0131701_0345392.jpg2009年は、いよいよ卒業し社会へ戻ることになる。最後の学期は、社会復帰する準備をするとともに、将来の布石を打っていきたい。インプットをしつつアウトプットをする、知見を行動に移す実践をしていこうと思う。日暮れて道遠しと焦り逸る気もあるが、敢えてゆっくり歩み、自らの平衡を適度に保っていきたい。

学ぶものとしてはデザインを学びたいと思う。今後コンサルティングやその先で、組織や社会といったシステムをデザインする機会は多いだろうが、デザインとはそもそも何なのかを、少しでも知っておきたいと思う。

左脳的な分析や学問から得られるものは、大抵の場合、新たなシステムを設計するための制約条件やデザインルールでしかない。それを基に創造するためには、右脳的なデザイン能力・センスが不可欠だ。私は自分のことを本来右脳的人間だと思っているので(分析的思考は訓練で身に付けている)、それを伸ばしたい、という思いもある。

同時に、プロジェクトベースの授業を履修することで、分析と創造の統合、知見と実践の接合を行おうと思う。

そして仕事に復帰したら、ひとまず自分にできることをやり切り、やりたいことをやってしまおうと思う。出世など忘れて、自らの成長と充足を優先したい。出世しないという訳ではなく、出世欲という執着によって、自らに枷を嵌め、気が逸らされたくないのだ。世界観が広がったお陰で、役割や執着を相対的に見られるようになった、ということか。


泣いても笑っても卒業が迫っている。一日一日を充実させ続けたい。


*1 MBAのエッセイを父に見せたときに、「ふらうとは哲学を学んだことがあるのか」と言われたのは、こうしたモデルの欠如を感じ取ったのだろう。モデルを通じて学ぶ教育から、自らモデルを選択し作り上げていく職業に移るにあたって、適応が十分進んでいなかったのだろう。適応しなくても技術の習得だけで数年は持ち得るから

*2 性質が悪いのは、二元論が「理論的」「理性的」という評価を得易いがために、真理を直感的に把握している人を「非論理的」「浪花節的(?)」とレッテル貼りをしてしまうことだ

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by flauto_sloan | 2009-01-02 20:26 | Mens et Manus
夏の終わりに
3ヶ月の夏休みがついに終わる。恐らくこれだけ長い休みを妻と二人で送れるのは、もう定年までないだろう。やりたいことを色々とできた有意義な夏休みだった。振り返ると
  • 読んだ本は24冊
  • 旅に出たのはのべ40日余
  • 訪れた州は16州*1
  • 足を踏み入れた国立公園は10*2
佳書に多く恵まれ、素晴らしい友人と語らい、多くを見聞した。

旅を通じて見たもの
この機会に最もしたかったことが、アメリカという国をよりよく知ることだった。
アメリカはよく、東海岸、西海岸、中西部、五大湖周辺、南部という5つの文化圏に分けられる。まだまだ全てを回れてはいないのだが、気候風土、土壌や天然資源、地理的配置によってここまで文化や生活が異なり、それに従って人の考え方や姿勢も変わるというのが実感としてわかり始めてきた。

例えば、東海岸はやはり欧州に近い生活や嗜好を持ち、人口密度が高いためサービス業や学問が発展し易い。だが中西部へ行くと、広大だが砂漠ではない大地ゆえ牧畜中心であり、人口密度の低さから家庭教育が多く、保守的な姿勢になりやすい。

今後さらによく見たいのは、まず南部。米国に内在する貧困問題の中心地である。そして西海岸。まだ部分的に訪れただけで、シリコンバレーにも行っていない。友人もいるので、早く行かねば。

思索と反省
本をよむ時間が充分にあったので、幅広い考え方を学び、思索を深めることができたと思う。
本の選び方は、自分なりに体系立てて(NYの紀伊国屋でたまたま手に取ったものもあるが)、次の3つの問を自問し続けるための糧となるもの、とした。その問とは、
  • なぜ20世紀の終わりから物事の変化が激しく速くなったのか
  • そのような変化の時代にあって個人や組織は何を理解し何をしなければならないのか
  • 個人が必要なことを理解し行動に移すにはどうすればよいか
であった。

この3つの問のレベルをぐるぐると回りながら、自分なりの理解と仮説を深めていったのだが、それは一方で自分自身を振り返り見つめ直す(必要だが苦痛に満ちた)プロセスであった。

人生で3度ほど大きな失敗をしたのだが、その失敗の原因はどこにあったのか。改めて客観的に(自分を過度に責めずに)分析していくと、自分が思っていた程には自分は悪くなく、むしろ複合要因が悪循環で織り成した「失敗する仕組み」に嵌っていたのだと判る。

勿論、責任転嫁をしたのではない。失敗する仕組みを打破できなかったり、傷が浅いうちに仕組みを好転させたりできなかったのは自分に非がある。だが自ら能力を過小評価したり、性格性質を卑下したりするほどの非はないとわかった。


また自分にとって感動的だったのは、3つの問に答えるための考え方を学んでいくうちに、物理や化学といった、私が修士まで学んできたもの - そして就職後に捨て去ってしまったもの - が非常に重要だとわかったことだった。

微分方程式が解けるとか、統計力学を理解するという技術的なことではない。物理や化学といった体系が内包している思想のことである。体系は自然を抽象化しモデル化したものであり、人間社会を含めた自然界の基本構造パターンの一部(だが恐らく主要な一部)でありうる。ならば理系的思考法をどんどん社会の問題に適用してよいのだ、と分かったのだ。

還元主義に堕さず、システム思考を行う(平衡論・速度論の考えを掘り起こした)。ある論理やフレームワークを適用する際は、適用可能な前提を理解する。アノマリーがあれば前提を疑う。等々。

この気づきは、就職を境に自分の中で別個のものとして存在していた、理系的思考法とコンサルタント的思考法を止揚できるものだった。ようやく自分のキャリアが5年(就職後)ではなく15年(高校以降)となった。


さらに、自分の価値観が何に基づいているのか、何を美しいと思うのかを考えていくと、音楽に辿り着いた。最も愛情と熱情を以って打ち込めるものが音楽だった。

これまでも仕事が終わってからフルートを吹いたり*3、週末にオーケストラに参加したりして、自分の中のバランスを保ってきた。私にとって音楽は生命力の源泉なのだ。同時に、演奏や鑑賞から多くを学ばせてくれる教師でもある。


そうして、思索と反省を書物に書かれた知恵を糧に行っていくと、自分自身が客観的に見えてきた。自分というものを、責め過ぎず甘やかせ過ぎず、卑下し過ぎず過信せず、悲観せず楽観せずに捉えられるようになった。
もしかすると、これが中庸、というものを垣間見ているのだろうか…


そんな、夏だった。


*1 カナダ含む
*2 カナダ含む、モニュメントバレー除く
*3 幸い、職場のあった六本木には早朝まで営業している音楽スタジオがあった。12時から2時まで練習、なんてこともしばしばあった

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by flauto_sloan | 2008-09-01 12:25 | Mens et Manus
拠って立つもの
渡米して一年、ひたすらにインプットをし続け、それを咀嚼し、自分の経験や知識を分析し綜合し、それが自分の生にどんな意味があるのか、否、自分の生にはどんな意味があるのか、を問い続けている。

お陰で大分、昔のように頭が回転するようになったのだが、理論やフレームワークの類で自分を理性的に分析していくと、当然割り切れない何かが残る。この何かというのが厄介で、感情と言うのだろうか、コギトというのだろうか、妬みや諦め、自惚れや慈しみ、利己心や使命感、色々なものがない交ぜになっている。

その感情すらも、何故そんな感情を持つのか、と何故を繰り返していくと、薄々感づいている自分の弱さや過ちが見えてきてしまう。


自分がどのような人間でありたいのか。

目標をダ・ヴィンチのような全能者に据えてしまっていると、自分とのギャップしか見えてこない。そこまで行かなくても、周りで成功・活躍している人、頑張っている人を見ていると、安穏とした自分との差が見えてくる。

ギャップがあるならば、それを埋めるよう努力するか、ギャップをギャップのまま諦めるかが基本方針だ。自分は全能ではないし、体力精神力の個体差もあるので、結果として努力するものと諦めるものを峻別しなければならない。


だが、どうやって峻別したらいい? 何が判断基準となろうか。

金銭的・物質的豊かさ? 貧困撲滅のような人道的善行? 科学的真理の探求? 美学音楽的美しさ?

これこそが自分自身で選ばなければならない価値選択で、答えなどありはしまい。どれを選んでも、同じ判断基準を選んだ人の中では競争に晒され、異なる判断基準を持つ人には蔑まれるか羨ましがられるかだ。

哲学を学んでこなかったのが悔やまれる。宗教だろうと信念だろうと、一本筋を通して生きている人は強い。

これまでに私は、ふらふらとこれらの判断基準の間を中途半端に揺れ動いては、競争に疲れ、他者を妬み、一度捨てた他の選択肢を拾い直してきた。

フルーティストを諦め進学し、科学から離れビジネスに職を持ち、仕事をしつつも社会貢献に興味を持ち…

強いて良い所を挙げれば、一通り見てきた、ということか(人道的善行はまだ入り口だが)。ただこのままでは深みと熱さに欠けてしまう。


30は而立であって、もう迷ってはいられない。結局自分が本当に信じられるものは何なのか。捨てざるを得ないものはなんなのか。捨てるにしてもその喪失は減じられないか。

これまでの選択の経験から、学んだものはある。モラトリアム的選択肢ばかり選んでいて、含み損となっていた喪失を「損切り」するのが怖くて向き合えなかっただけだ。ようやく最近、向き合い、学びを抽出する覚悟ができてきた。

こうして厳しい問いを自分に投げ続けているのだが、心の奥の何かが、まだ泣きながら駄々をこねている。而立のタイミングでこの結論を出すための2年間があるのは、天佑だろう。

本当はどれを選択するのかもう決めているのだろうが、この駄々っ子が泣き止まないので、もう少し悩んでいたい。
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by flauto_sloan | 2008-07-17 05:54 | Mens et Manus
リーダーシップの和洋
ごく最近、刺激的な本を2冊読んだ。一冊はハーバード・ケネディスクールを代表するロナルド・ハイフェッツ教授の『最前線のリーダーシップ』であり、もう一冊は安岡正篤先生の『先哲が説く 指導者の条件』である。どちらも「リーダーシップ」がテーマであり、和洋の違いによる体系化の違い(特に「する」ことを重視するか「である」ことを重視するか)はあるものの、内容的には共通しているものが多く、面白い。リーダーシップに対する二つの異なるアプローチの相違を通じて、日本で経済・ビジネスにおけるリーダーとして何を心がけるべきかを考えるのに役立つ。

R.ハイフェッツ『最前線のリーダーシップ』
ハイフェッツ教授の授業に感化された、ケネディスクール及びMITスローンの日本人学生が翻訳した名著であり、リーダーシップが如何に危険であるか、そこで生き延びるためにどのような方法を執るべきか、そして生き延びつつリーダーシップを発揮するためにどのような心を持たねばならないかを説いている。

「リード」とは、もとは「前進するために死ぬ」という意味だそうだ。リーダーシップは、高い価値観や新たな環境に自分と周囲を適応させる作業であり、その過程で人々に価値観などの喪失を求めるため、危険(4つのリスクに分類)を呼び込む。それから生き延びるためには、バルコニーに上がって全体観を見渡したり、熱気を調整したり、攻撃を甘受したり、といった5つに体系化された手法を上手く駆使せねばならない。そして前に進み続けるために、渇望をコントロールし、役割と自己とを区別し、いつか事態は好転するという確信と神聖な心を持って事に処し続けねばならない。

リーダーシップという、一見捉えどころがなさそうなものを、筆者やケネディスクールの学生など多くのリーダーの経験(主に失敗体験)を題材に、著者の専門である精神医学、音楽、政治学、メディアの視点を綜合して体系化した、実践的で虚飾のないリーダーシップ論だ。KSGの友人IkeさんやSlaon/KSGの先輩konpeさんのブログでもたびたび紹介されている。

読了後に、魂を揺り動かされるような衝撃を受けた。リーダーシップとは何か、自分はこれから何を為し、どうあるべきか、これまでの30年を見つめ直し、これからの50年を見据える為の、内なる問題提起をされた。佳書であり座右たるべし。


安岡正篤『指導者の条件』
東洋思想研究の第一人者、安岡正篤の手で、江戸時代の『水雲問答』『熊沢蕃山語録』を題材として、指導者に必要な資質と考え方を論じている。特に『水雲問答』は上州安中の板倉勝尚候と大学頭の林述斎との間の往復書簡であり、和中の様々な学問からの洞察が深い。

ハイフェッツのような体系化はされず、様々な思想の枠組みが並存しているが、それらを統合して知識から見識を練り上げていくという、日本的な思索アプローチ(或いはソクラテス的手法)が執られている。
特に感じ入ったポイントを列挙すると
  • 「識」には知識・見識・胆識の三つがあり、胆識を鍛錬するところまで至ってこそ指導者たりうる。知識は単なる情報で値打ちがない。見識は知識に加え、体験や英知に基づき価値判断を伴うもので、見識があって初めて人物たりえる。胆識とは実行力を伴う知識・見識であり、抵抗や困難に臨んだ際に敢然として断行し得ることである
  • *1から禍というものが思いもよらず自在に起こってくるもので、権力を私物化するといけない。公平にして権力を握れているうちは禍は起きないので、権というものは握れれば早く握り、(私心が生まれる前に)早く脱けた方がよい
  • 要職にあっては、任怨と分謗が重要である*2。重責を断行すれば、必ず怨まれるが、それに怯えては何もできない。「よろしい、私は断じて我が道を行く」という怨に任じる気概が必要である。また同僚の間で、反対側からの謗りを分かち、自分だけ良い子にならず襟を正さねばならない

和洋のリーダーシップ論から何をすべきか
権力は危険で禍を招くものであるので(リーダーシップに伴う危険)、生き延びるためには忠厚でありつつも任怨と分謗でなければならず(全体像を掴み、政治的に考え、当事者に作業を投げ返し、攻撃を受けても踏みとどまる)、そのために知識を見識に高め、胆識を鍛えねばならない(心を見つめる)。という論は、ハイフェッツとよく似ている。

が、ハイフェッツが「生き延びるためにすること」を説くのに対し、安岡は「指導者であること」を説き、結果として志を遂げられないことは君子でもあり得る天命だと捉える。

この、儒教および日本の道徳に則るリーダーシップ論自体が、最早前提が成り立たない、適応の過程で喪失してしまう価値観なのかもしれない。或いは逆に、功利主義からの揺り戻しが始まっている中で、むしろ改めて建設的に価値を認められる論なのかもしれない*3

科学を学び、多様な価値観・宗教観の世界で働いていきたいと考えている私にとっては、ハイフェッツのアプローチと結論がしっくりくるのだが、日本人のアイデンティティを保持するためにも、先哲からの教えも同時に(矛盾を抱えていても)抱擁していたい。


さて、ここまででは書物からの知識でしかない。見識を身に着けるべく、さっそくこれまでの学問および実務にて学んだ経験をハイフェッツ/安岡的リーダーシップの枠組みで照らし直してみた。ようやく、これまで直視できなかった失敗体験と向き合い、過去を歴史的な経験とし、将来の自分の糧とすることができたと思う。

次に私が為すべきは、このリーダーシップの学びを如何に実践し、さらに学びを深めて見識と胆識を養うかだ。それはMBA在学中だけではなく、卒業後実社会に戻ってからの重要なテーマであるのは間違いない。


*1 権とは秤の分銅のことであり、竿が衡である。竿が平ら(衡平)となる時が正であり、正から見て権が当てはまるのが義であるから、正を得て妥当なのが正義である
*2 『三事忠告』より
*3 ただし、人や自然が何のためにあるのか、どうあるべきかといった目的論的世界観を復権することで、機械論的科学が停滞してはならない

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by flauto_sloan | 2008-07-16 22:04 | Mens et Manus
佳書
「佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体裁を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります」(安岡正篤一日一言より)

ここのところ、幸運にも佳書に巡り合い続けている。

過去の失敗や自分の内面を振り返り、革むるべき処と、責めざるべき処、反省すべき処と、自信を取り戻すべき処を峻別できた。

心が生き返ってゆく。

もうすぐ31年を迎える人生で、何年間足踏みや遠回りをしたのか判らない。それが無駄でなかった、などという甘えたこともいうつもりは毛頭無い。だが、それらを全て受け入れるための心構えと勇気が湧いた。

その感動すべき瞬間、ニューヨークからの帰路の夜道は忘れまい。
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by flauto_sloan | 2008-06-24 13:18 | Mens et Manus
秘めたる熱さ
「熱さ」「情熱」の重要性を最近富に思う。ボストンには熱い人が多く、そして皆魅力的だ。

人を惹きつけるのには、熱さが要る。本人のエネルギー準位が高くないと、他者にエネルギーを与えて励起させることなどできない。

Anncona教授のセッションにあったように、Visoningはリーダーシップの重要な一要素であり、その中でも情熱的であることはカリスマの条件である。

だが情熱的であるとは、一体どのようなものだろうか。古今の偉大なリーダーに学ぶものも多いが、このボストンの地でリーダーシップを発揮している友人知人から学ぶものも多い。リーダーシップ全般ではなく、どのような時に周りに「熱さ」を感じさせるについてを考えてみた*。ネーミングセンスの悪さは容赦して欲しい。

1. ロックスター型
自分自身が熱く、さらに周囲に熱くなることを訴えかけて励起させる。ジャパントレックのリーダーだった2年生がまさにこのタイプで、彼が事あるごとに皆に訴える "Are YOU ready to ROCK!?" の叫びは、周囲を否が応でも熱くする。
これはやや極端な例かもしれないが、ありあまるエネルギーを無理やり周囲に与えると、やはりこの人は熱いと感じる。

2. ジョン・レノン型
本人は非常に熱いのだが、敢えてその熱さを押し付けはしないが、信念に則った行動を周りが見て、次第に感化され励起されていく。ボストンにはこのタイプの人が多く、感化されていくうちに、じゃあ一緒に何かやりましょう、と話が進む結果、様々なプロジェクトが自然発生的に(だが予定調和的に)発声している。

3. クラシック型
本当は熱いのだが、周囲が働きかけてきて始めてその熱さを表に出す。一見冷徹で、熱さなど無いようでいながら、実は秘めた思いを持ち、周囲は時折の表出を感じ取れると、熱さに気がつく。命名が適切か分からないが、ムラヴィンスキーやクレンペラーの演奏で感じる熱さであり、ともすると面白みが無いように聴こえて、その情熱を垣間見ると震撼する。


では1から3のどれがよいのか。これはその人が成し遂げたい目的と価値観によって優劣は異なってくる。ロックスター型は分かりやすく魅力的なため、多数の人間を率いていけるが、ジョン・レノン型は少数精鋭で士気の高いチームを組むことができる。クラシック型であると、隠遁的であり孤独な美的感覚に同調してくれる人は少数で、実社会で大きな動きを起こす火種とはなりにくい。

どのタイプを選ぶのかは、その人が好きなものに左右されていると感じる。勉強や仕事以外に、長年力を入れて研鑽してきたものは、人格形成にも大きな影響を与えていると思う。

文字通りロックをやっていたり、大人数を率いるチームスポーツのリーダーなどは、ロックスター型が自然なように思えるし、個人が重要なプロフェッショナルな仕事や、空手など個人スポーツをしていた人はジョン・レノン型だろう。

私の場合、クラシック型なのだが、それを形付けたのはフルートだろう。オーケストラの中では、楽譜に忠実で周囲と調和した中で、個性を発揮する。ライブ(演奏会)で音楽が盛り上がると、言語を超えたコミュニケーションでお互いを励起しあっていく。それは受動的で協奏的であり、分かりやすい熱さではない。

さりとて而立にて何かを為さねばならない時に、いつまでも熱さを隠していても仕方が無い。だがはて、一体どうしたらよいものだろうか。まずは美的感覚をアメリカナイズして、熱さを表に出してみようか。

* 少ないサンプルのみでの考察なので、包括的でないことは了承置き頂きたい。また、「熱さ」の定義も曖昧なままの議論であることも同様
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by flauto_sloan | 2008-05-13 21:43 | Mens et Manus
価値観が変わる苦しみ
Vogel塾や友人との議論、様々な講演会、授業を通じて、この一年間で視点や価値観が大きく変わった。だがそれ故の苦しみに最近は悩まされている。

ボストンに来て間違いなく、世界規模での課題が何で、それについてどう考えるのかについて視野は広がった。が、所詮殆ど真剣に考えたことがなかったところからの一年間の学びであり、まだまだ何も知っていないということを日々学んでいる。マクロ経済、政治、貧困、腐敗、人権、紛争、環境問題と、複雑に絡み合う問題が何故生じ、何故解決できていないのか。何ができうるのか。残り一年、さらに学びを深め、自分にできることとできないことを見極めたい。

そうして世界を少しずつ知る中で日本を考えると、日本にいた時に比べて批判的に評価ができるようになった。ビジネススクールでの日本の取り上げ方は、経済規模に比べ小さく、正鵠を射ていないこともある。何故そういう扱いなのだろう。経済が構造的にがんじがらめになって成長できないでいる15年で、世界が日本に政治・経済でのリーダーシップを期待しなくなったことと、トヨタ・キヤノン・ホンダ・ソニー・任天堂といった、世界を席巻するビッグプレーヤーが殆ど新たに登場していないことが大きいのだろう*

ただ一方で、日本にはまだまだイノベーションの力があり、素晴らしい技術が眠っていることも知っている。だがそれは眠らせていては意味がなく、揺り起こして世界を震撼させなければならない。日本にいたときは、この埋もれた宝に過剰な期待(感情的であり非合理だった)をしていたが、ボストンというベンチャーの一大拠点に身を置くと、技術を形にしてリターンを得ない限り、人類から忘れ去られる技術や特許の一つでしかなくなるのだ、という当たり前だが客観的な見方ができるようになった。

これらの素晴らしい学びは、あまりに激しく急激に襲いかかってきて、自分の中でパラダイム転換を起こしている。価値観が大きく揺さぶられ、これまでの知識や経験を再評価させられ、自分の知恵や能力のなさに辟易する。非常に苦しい。

興味を発散させすぎてしまったのだろうか。最近では授業なり課外活動なりで自分が率先して活躍できる場が少ない、というよりも自分に自信が持てなくなってしまっている。自信がなくなると学びも少なくなり、友人も減って良いことなどなにもないのだが、この悪循環に入る前になんとか自分のバランスをとらねば、と思う。

そのため、学ぶものは世界や日本でありながら、気にしているものは自分自身という、統合しにくい状態になってしまっている。幸いにも、もうすぐ夏休みであるので、一度自分自身の再構築に時間を割いてみたいと思う。それによって、世界と日本を学ぶ効率や意欲が増すことだろう。


* ニッチプレーヤーや部材・部品メーカーなどでは世界を席巻したメーカーはあるのだが、認知度とあわせるとなかなか少ない
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by flauto_sloan | 2008-05-06 04:22 | Mens et Manus
Positive Thinking
ポジティブ・シンキングという言葉があり、私のいるコンサルティング・ファームではよく言われる。何事も前向きに、プラスに捉えよ、というものだ。この言葉が社内で声高に言われるのは、ビジョンとオペレーションの両方で重要だからだ。

ビジョンにおいては、Valueという強烈な価値観で統率された組織において、その価値観を積極的に肯定することを意味する。確かに素晴らしい価値観であるので、その素晴らしさを採用活動などを通じて肯定的に喧伝していくうちに、自然と愛着が増し、無意識的に一層の肯定につながる。日本で『言霊』、欧米で "consistency effect" と呼ばれるものだ。

オペレーションにおいては、ある種の自己欺瞞を誘発し、辛い仕事や状況にも耐ええる強い心を作ることを意味する。辛い状況に陥り、めげそうになる時に、「前向きに、前向きに、ポジティブに」と考える習慣をつけておくと、辛いと感じる身体や精神からの警告を受け流せ、それを超克して働ける。その意味でポジティブな自己欺瞞であり、強靭な精神力を生み出す源泉である。

自己啓発系の本でも、この手の前向きさは多かれ少なかれ奨励されているし、会社のパートナー達を見ていても、重要なのだろうなと感じる。後輩達を見ていても、先天的に楽観的な人もいるが、後天的にポジティブになった人もいる。


ただ、私はこのポジティブ・シンキングばっかりは、結局身につけられていない。特に後者のオペレーショナルな面で。
理由としては、先天的な悲観的性格、遁世への憧れ、自己欺瞞の下手さ、云々がある。特に最期の自己欺瞞の下手さが致命的であり、自分を過小評価してしまう。

本来、自分の現在価値にはポテンシャル(将来の成長)を含めて考えるべきだろう。ファイナンスで企業が将来のキャッシュフローを現在の価値に割り戻して、企業の現在価値を測るように。個人であれば、「俺は将来ビッグになるんだぜ!! だから今はこんなバイト暮らしで修行中だ」となるべきだ。

一方、年をとって将来のポテンシャルへの精度が上がり(身の程を知り)、その価値を修正すると、(心理学的には割引率が指数型ではなく双曲型で割り引かれることもあり)、ポジティブな人ですら自分の価値を大幅に下方修正することがありうる。
ドラマなどで「俺は気づいたんだよ。もうパンクの道では成功しないって」となるのは、ポテンシャルを現実に即して下方修正し、また年を取ってその精度が急激に上がったのである。

だから、若くして一廉の人物になるか、将来を大きく強く信じ続けるかしない限り、どこかで現実の矮小な自分に気づいて落胆してしまう。こんなこともできないようでは、先が知れている、と。


最近、勉強もその他の活動もうまく回っていない。周りの友人、家族、皆に迷惑をかけてしまっている。半年でだいぶ自己欺瞞をし直して、将来に期待を寄せるようになれていたが、ここのところ(文字通り)忙しさで心を亡くし、自分が今もっているポテンシャルに目を向けず、身体からの警告を受け流せずに疲労が溜まり、さらに仕事や勉強ができなくなる、という悪循環に陥っている。


なんとか再び自己を騙せるよう、仕事をしていたときのように、ぼつぼつとつぶやく。「ポジティブに、ポジティブに、、、」
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by flauto_sloan | 2008-02-23 22:43 | Mens et Manus
仮面(persona)
仮面はラテン語でpersonaであり、personの語源です。仮面をつけることで演劇の役が決まるように、仮面と人格は密接に関わるという思想があります。

思えばこれまで様々な仮面を、脱ぎたいと思いつつ被り続けていました。
特に「職業人格」と呼ばれる仮面は脱ぎたくて仕方がありませんでした。
この仮面を作るのに苦慮し、結果としてあまりいいものができなかった結果、石仮面のように逆にその出来損ないの仮面に自分が振り回されてしまっていた気がします。

「コンサルタントたる者、こう振舞わなければならない。こんな振る舞いはしてはならない」

先輩や上司から様々なフィードバックや指導を受け(それら一つ一つは素晴らしく有用でした)、草食獣的でソフトな私は、肉食獣的で剛胆なキャラクターの多い会社の中で仕事をしていくために、自分本来の資質とは異なる、職業人格という「仮面」を拵えてかぶっていました。
渡米してからでさえも、会社関連のイベントですと、いつのまにかこの仮面をかぶり、面白みのない人間になってしまっていました。

Temazcal で脱いだこの仮面を見てみると、妙なプライドや、一面的な職業観、同僚にもクライアントにも舐められてはいけないという強迫観念、昇進への焦り、そういった質の悪い絵の具で彩られています。


でも、僕が被りたかった仮面はそんなのではなかった。
仮面を着けている時の自分は、一番好ましい自分ではないことも知っていた。
それに、そもそも別に仮面を被りたかったわけじゃない。



今回、世界のトップクラスのエリートが集まると云われる MIT Sloanで半年間多くの人と出会い、また学科の成績も出揃ってみると、top of the tops ではありませんが、決して自分は出来損ないでも鈍くもないと自認できました。

仮面さえかぶっていなければ、自分の考えること、話すこと、為すことに自身が持て、また結果も付いてきています。対偶を取れば、駄目なときは仮面冠者です。

そもそも仮面を本当にかぶらなければならないのか、かぶる必要があるならどんな仮面であるべきか。この二つの問いを十分吟味しないまま、追い立てられて出来損ないの仮面をかぶり、花形から道化までを彷徨っていました。

仮面を剥いでみれば、仮面の醜悪さと、まだ捨てたものではない自分を見つけました。久々に皮膚呼吸する自分を労わり、仕事に復帰するときには仮面をつけないで(着けるとしたら、その時は適した仮面を手にして)勝負します。
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なれないものにはなれません。弱みは克服できないから弱みなのです。仮面でどうこうなっても、畢竟見せかけでしかありません。ならば強みをとことん伸ばして、弱みをカバーすればよいだけ、という至極当たり前のことを忘れていました。自分の強みを活かし伸ばしていくのみです。

年の初めに、色々な思い、情報、経験が重なり、この「自分」と「仮面」を自覚できたのは必然だった、と柄にもなく運命論的に捉えることとします。
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by flauto_sloan | 2008-01-07 12:49 | Mens et Manus