MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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ボーゲル塾卒業
c0131701_14262175.jpg2年間に亘り通ったボーゲル塾。
ボーゲル先生宅での勉強会は先日が最後だったが、本日は4つの分科会が1年間の研究発表と質疑応答を行い、懇親会を行った。

いわば門下生自身による卒業式だ。

日本人のアイデンティティ、少子高齢社会での日本のあり方、日本のプレゼンスと外交、日本の教育という4つのテーマは、相互連関していて非常に面白い。日本の様々な閉塞感や問題は、突き詰めていけば『成長の限界』の縮図なのではないか、と思う。

国土も資源も限られた日本が、高い教育水準(特に戦前のエリート層)と人口増加によって目覚しい成長を遂げたが、その限界を迎えて今は下降局面にある。だがこれまで成長、躍進しか経験したことがない日本国民や政治家は、成長の限界局面を迎えてどうしてよいのかがわからない。縮小均衡に陥るのが自然であっても、それを選択することは前の世代の成功を引き継げない「失敗」と見做されてしまう

では均衡を破るしかないのだが、均衡を破るには別の何かで不均衡を作らなければならない。その新しい不均衡がテーマによって、価値観だったり移民政策だったり、軍事力だったり教育の多様性だったりする。不均衡なので当然、それらの変化によって何かを失うことになり、抵抗する人がいる。抵抗に屈し続けたら、待っているのは国民総茹で蛙だ。いや、目端の利く人は一足先に逃げるか出し抜くかするだろうが。


だが地球全体がいずれ『成長の限界』を迎えるのなら(これは非常に強い仮定だが)、それを一足先に迎えた日本は、世界のロールモデル足りうる。他の世界が日本のような限界に追いついて始めて、日本が失敗していたのでなく、将来を先取りしていたのだと気がつくかもしれない。今回の金融危機でようやく、日本のバブル崩壊後の対応が理解されたように。

その時、日本が豊かなる衰退といった新しいモデルを示せるかどうかで、その時に世界の尊敬を得られるか、あるいは見直されもしない存在に甘んじるかが決まるかもしれない。

もちろん、その時までに日本が今以上に意気消沈してしまっていては意味がない。そのため、何とか日本人のアイデンティティを括弧たるものにし、少子高齢の社会システムを描き、プレゼンスを維持し、教育の建て直しをしなければならない。それぞれの局所解としては、さすがボーゲル塾だけあり、色々と面白い意見が出てきた。だがそれを俯瞰して、どう取捨選択し、対立を止揚するか。答えのない悩みが深まった。だがその悩み自体が、大きな学びであり、ボーゲル塾を卒業した証なのだろう。

答えがないが故に、日本に帰っても引き続き同門の士と議論し続けたい。志を忘れてはいけない。
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by flauto_sloan | 2009-05-31 14:28 | Harvardでの学び
最後のボーゲル塾
c0131701_1528719.jpg2年間門下にいたボーゲル塾。今日はハーバードで講座を持つ武見敬三元参議院議員をお迎えし、最後のボーゲル邸での勉強会だった。
私の属していた、少子高齢社会での社会システム研究班が一年の討議結果を報告・議論し、ボーゲル先生からの最後の薫陶を受けた。本当に素晴らしい師であり、得難い機会であった

2050年の日本!?
討議内容の詳細は割愛するが、少子高齢社会となる2050年の日本の姿を考えるのは、非常に刺激的だった。移民政策の大きな転換がない場合、2050年には日本の人口が9000人から1億人にまで減少し、しかも高齢化が進む結果、労働力人口は半減する(現在の基準の場合)。

当然社会保障制度は現行のままでは立ち行かないし、産業も国内で若い労働力を調達することは非常に困難となる。内需は縮小していくだろうし、対外的に見れば中国はもちろん、現在の新興国にも経済規模で抜き去られる可能性が大きい。

ではどうすべきか。まずは移行の仕方や実行可能性を考えずに、どんなシナリオがあるのかをやや極端に描いて議論していったのだが、正直言って納得感のある絵はなかなか描けない。学生が10人集まって簡単に描けるようなら苦労しないのは尤もなのだが、1億人もの多大な人口(アメリカと中国ばかり気になり実感しにくいが、日本は人口大国でもある)と、縮小傾向だが巨大な経済規模を支えつつ、老いて減りゆく国民が国を成長させるというのは、非常に難しい。

人口が3/4になるなら、一人当たりGDPを4/3にしないとGDPは維持できない。だがそんなに生産性の高い仕事はなかなかないし、あってもそこに必要なスキルを国民の大半が身に付けることは難しい。グローバルな競争下ではなおさらだ。

一方で医療費や福祉関連に必要なコストは増大していく。それを賄うために増税は早晩必要なのだが、個人から取れば負担は激増するし、企業から取ろうとすれば海外移転や海外での再投資が進み、税収自体が減る。

解があるのかもわからない、複雑な連立方程式だ。


老いてますます盛んに
これが答だと言うつもりは全くないし、解決するのはごく一部の問題だとわかった上で、個人的には、2050年の日本では老人起業家が続出し、老人の、老人による、老人のためのビジネスが主流になってほしいと思う。「老人」の「老」の意味合いも変わってくるだろう。衰え、人生を閉じようとしている状態ではなく、体力と引き換えに多くの経験と知恵が蓄積した状態、と捉えるべきだろう。ただし、老人ビジネスが既得権益の確保であっては、ただでさえ貴重な若者の気鋭を殺いでしまう。老人企業を促しつつ、あくまでフェアな経済原理がはたらく制度設計が望ましい。

老人起業モデルが成功し、日本に「シルバー・バレー」が箱根の温泉街あたり(?)にできたら、やがて遅れて高齢社会を迎える他国の規範となるだろう。いつもゲームのルール作りで他国の後塵を拝している日本が、構造的に世界をリードする最後のチャンスかもしれない。

年金も、平均寿命よりも支給開始年齢を遅くするくらいの思い切りがあってもよいのかもしれない。そもそも年金制度をビスマルクが設計した時、支給開始年齢の65歳は、当時50歳以下だった平均寿命よりはるか後だったという。

半減する労働力人口を支えるには、現在就労率の低い老人、女性、子供を働かせるか、人間以外のロボット、コンピュータか牛馬を使役させるしかない。これ以上の少子化を防ぎ、教育水準を維持するなら、人間における優先度は老人であろう。もちろんそのためには、老人が働き易くなり、老人ならではのポカやミス(特に痴呆は大きなリスク)をよけるための技術やノウハウを蓄積していくことも必要だろう。

・・・云々と考えていて、はてこの定年なしに働かされ続ける2050年の老人は誰だろうと考えてみると、外ならぬ自分である。少しは休みたいと思う気持ちはあるが、一方で、その頃の老人ならば英語が話せ国際経験があり、若い頃からコンピュータに触れている。今の老人とはまた違う動き方・考え方をしていることだろう。想像(妄想?)には限りはないが、高齢社会も遣り様によっては面白いかもしれない。悲嘆ばかりしても仕方ない。


老師エズラ・F・ボーゲル
いつまでも矍鑠としていて洞察深いボーゲル先生と議論し、また2050年の高齢者とはまさに自分達だと気づいたとき、老いることの可能性、生涯学び続け成長し続けることの楽しさに触れ、それを信じたいと思った。

そしてこの2年を通じて、天下国家を語るための視点とはどのようなものか。まだまだ浅学にして未熟者でありながら、ボーゲル先生から少し学ぶことができたと思うMITで講演を依頼した時に、個人的にお話させていただく機会があったのだが、先生は日本人以上に日本と日本人を愛する、知の巨人でありリーダーだった。その先生に学んだ志と、それを一にする門下生の結びつきとは、日本に帰るにあたって一番の土産かもしれない。

このボストンにて、ハーバード松下村塾(ボーゲル塾の正式名称)に通えたことを、誇りに思う。
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by flauto_sloan | 2009-05-04 23:15 | Harvardでの学び
Harvard Asia Business Conference - 中国の勢いから日本を省みる
ハーバードでAsia Business Conference があった。中国への注目と、中国人のプレゼンスに改めて驚く。特に、中国の強みが低賃金から人材へと移行しているのが需要・供給両面で感じられる。

日本の危機再考と、中国人の視野への不安
開会のkeynote speechは、HBSのベイカー・スカラー(最優等)保持者で新生銀行の前CEOのポルテ氏であり、日本のバブル崩壊後の政策からアメリカが今学ぶべきものを論じた。
政策には四つのステージがあり、まず状況把握(inspection)があり、金融機関への資金注入(injection)がある。そして不良債権を切り出して処理し(ejection)、最後に金融機関が自ら自己資本を増強できるためのビジネスモデルを作る(making profit)。アメリカは今injectionのフェーズにあり、今後日本のやり方をよく学んで、どうejection、making profitへと繋げるかを考えなければならない。

日本は村山内閣で内定し橋本内閣で導入された消費税によって、景気浮揚のチャンスを潰してしまったが、それ以外はよく非常によく検討し、危機克服への重要な事例を作り出した。日本が直面していた課題の大きさ・難しさを理解し、五里霧中ながら断行した政策とともに、もっと日本を評価するべきだ。
日本での氏の評価は措いておくにせよ、日本人としては勇気付けられる講演だった。だが会場の大半を占める中国人および中国系アメリカ人の反応は非常に薄い。PCを開く者、居眠りする者。集中力の低さが伝わってくる。講演後の周りの反応を聞いていると、「何で今後のアジアのビジネスを語る場で、過去の日本を語らねばならないのだ」といった声が聞こえる。

こうした中国人の態度にはいささか幻滅してしまった。若い時から中国古典に慣れ親しんだ所為か、中国は豊富な歴史から学ぶ能力が非常に高いと考えていた(愛読書の韓非子は、いわば法と経済のケーススタディ集だ)。今も中央の政治家はそうなのかもしれないが、この経験といい、スローンにいる一部の中国人と話した感想といい、若いビジネスリーダーに歴史への敬意があまり感じられない。

東夷を蔑ろにする気持ちもあるのだろうが、中国の歴史は改革開放から始まったわけではないし、経済危機もオランダのチューリップバブルから400年の歴史がある。歴史に加え、経済・経営の理論も、鼠を捕る猫だけを選り分けている感がある。

とはいうものの、中には教養豊かな中国人の友人もいるし、私の懸念が杞憂でいてくれる可能性もあるが、パースペクティブとレトロスペクティブがもしも深まらないならば、現代中国のビジネスリーダーが傲岸さと責任感の無自覚を生み出してしまうのではないかと心配になってしまう(尤も、日本も同じ状況だが)。


中国への期待
また、パネルディスカッションのトピックや顔ぶれを見ていても、中国のプレゼンスが高い。内容も、珠江デルタを始めとした低賃金の製造拠点としての役割よりも、R&D拠点としての中国の可能性を論じたものが目立つ。勿論、知的財産の保護や、起業家精神と裏腹の定着率の低さといった問題はある。また一大消費市場としての魅力も高まっている。

中華系の参加者も、ボストンだけでなくNYUやコーネルといった他都市の大学からも来ており、存在感とネットワークの深さを一層増している。

日本人もIMFの加藤氏やサンリオCOOの鳩山氏を初め、見識の高いビジネスパーソンが参加していたが、参加者の割合も含め、全体として存在感が薄い(韓国はそれ以上に薄かった感がある)。日本経済が今から大きな成長をするのはなかなか難しいし、良くも悪くも変化に乏しい(GDPの年率マイナス12%超は衝撃だが)。だが日本も変化していないわけではなく、様々なレベルでの革新が進んでいる。GDPといった外枠の変化の乏しさと、世界への発信力の弱さとで、日本国内の変化が実際よりも低い評価を受けている感がある。


ゲームのルール
中国の政治的な巧さは、世界中に広がる華僑ネットワークと、ゲームのルールの重要性の見極めと、少しずつルールを変えていく巧妙さにあると思う。

日本人は「良いものを作れば、いつか認められる」と考え、そのヒューリスティクスが正しかった時期があった。なまじそれが高度経済成長期という輝かしい時代に上手く機能していたため、いまだにその考えに固執しているきらいがある。完全に否定するつもりは全くないが、世界市場では「良いと思ってもらえるものを、良さを正しく伝えられれば認められる」のが現実のゲームのルールであり、マーケティングというコミュニケーションが重要である。

この良さの伝達が、国家、企業、個人レベルで日本は苦手だ。ボーゲル先生も日本の政治家やリーダーのパブリック・スピーキングの拙さを心配されている。ハイテク製造業にコンサルティングをしていると、製品は恐ろしく良いのに、マーケティングの拙さで商機を逃し、競合に負けている(それが数ラウンド続いて、もはや良い製品を作る知見や体力に翳りが出ている)。かといって、日本に有利にビジネスというゲームのルールを変更することは、自動車などを一部を除き、多くの業界ではできなかった。

一方で、中国はアメリカが設定したゲームに乗りつつ、巧みに上位プレーヤーとなっていく術を見出している。同時に、アフリカ進出や気候問題では自らがゲームのルール作りに関与し、自国に有利にもっていこうとしている。そして作ったルールが定着するまで、大きな動きをしない辛抱強さがある。日本は戦後アメリカの統治下・影響下でそのルール制定スキルを急速に失い、いまだに復興できないでいる。それには巨視的でシステム的な考え方と、相手を知らず出し抜く巧妙さが必要だが、前者の発達は教育が妨げ、後者の発達は社会が妨げている。


日本は敗戦で智慧や技術の断絶が起き、中国も文化大革命で知識の断絶が起きたのだが、なぜこの彼我の差が生じたのだろうか。民族性や文化で片付けられるものではないと思うのだが、私にはなかなかわからない。中国人コミュニティを見ていて、4000年の歴史で変わらぬもの、変わっているものを感じ、その矛盾や断絶に興味を持つ。そろそろ日本も次の世代の国民の思想や価値観を設計する時期なのだろう。それが教育分野で問題意識の高いアントレプレナーが生まれている現象の背後にある潮流だろう。
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by flauto_sloan | 2009-02-14 11:45 | Harvardでの学び
学び続ける大人 - Adult Development
c0131701_2028532.jpg今学期はスローンでの授業に加え、Harvard Graduate School of Education(ハーバード教育大学院)にて、名物授業をひとつ聴講している。Robert Kegan教授の "Adult Development" という授業だ。この授業でワークショップがあったのだが、これが非常に面白かった。

キーガン教授の授業
心理学者であるキーガン教授が教えるこの発達心理学の授業の主眼は、講座名の通り「いかに大人が学習し成長するか」を学ぶことにある。「子供」と「大人」という区分で考えると、子供は学び成長するものであり、大人は既に学んでおり成長しきったものと暗に了承している。だがこれは誤りであり、大人も生涯学び続け、成長し続けるものだ。では大人はどのように成長するのか。これを知ることで、人を動かす立場に就く者や人を教育する者が、人を育て、学ばせ、やる気づけるための知識やスキルを身に付けることができる。

教育大学院でも有名な授業で、スローンのセンゲ教授のリーダーシップの授業に来ていたHGSEの生徒も、一つ薦めるならこの授業だと言っていた(実際に彼はこの授業を今履修している)。またハイフェッツ教授のリーダーシップの授業でも、キーガン教授の文献は参考資料になっているし、一緒に仕事をしたことがあるハイフェッツ教授も薦めていた。何より、チームメンバーで最も親しくなったカレンの指導教官でもある。この才女をして心酔しらしめる教授であれば、相当なものだろうと確信し、履修することにした。

私の動機は、人をどう育てるのかを知ることと、それにも増して、自分自身がどうやって学ぶべきかを知ることにある*1。この1年半でだいぶ取り戻した好奇心を、どうやってメタレベルの深い学びに結びつけ、自分自身の成長の糧とするのか、その手法が最大の関心事だ。

過去の自分と将来の自分
今日のワークショップでは、学生が年代順のグループに分かれた。20代、30代、40代、50代以上のグループごとに、7-8人程度のサブグループを作る。20代が最も多く、30代がそれに次ぐ。そして仕事や家族など成長における主要な領域について、今この歳でどういう考えを持っているか、10年前とどう変わったかを考え、議論する。そして次の年代のグループに、一つだけ質問をする。

20代は野心的で、何でもできると考える一方で、自分の不安定な立場に不安を覚える。仕事が重要で、家族を意識せず、宗教など既成の価値観に反発する。

30代は自分の価値観を再認識・再構成する時期だ。仕事の目的が「達成」から「意義」へと変わり、同時に安定を志向する。家族との関わりも、子供を持つことで親への接し方も期待も変化する。古い価値観を自分なりに解釈し、受け入れ始める。

40代は仕事にしろ家族にしろ、「これが私であり、これが私が得たものなのだ」と、自分を受け入れ、そして自分に誇りを持つ。同時に周囲に死が訪れるようになり、自らの「死」が避けられないことを理解し始める。

そして50代以上になると、人生と世界をあるがままに受容し、最期までどう前進するか、という彼岸を見つめるようになっていた。

それぞれの年代でもつ様々な問も、歳を経ることで問自体を深く理解し、自分なりの答えを見出していく、あるいは答えがないことを受け入れていく。

まさに、大人になっても学び、成長し続けていくのが人間なのだと、身を以って理解せざるをえない。最後の世代の諦念には、切なさや悲しさだけではなく、穏やかさがあった。ああして幸せに学び、歳をとっていきたいと思う。


*1 このブログで繰り返し、「学ぶことを学ぶ」と書いていると、私が学習障害にある (もしくはあった) かのように思われるかもしれない。それはある意味正しく、学問を通じて会得してきた学習のやり方が、社会に出てから適合しなくなっている部分、渡米してから適合しなくなった部分が明らかになってきた。代わりのやり方を試行錯誤しているのだが、なかなかこれという学びの技術の形が見えてきていない

もともと私は、人間の生理的・心理的特性を利用して学習のやり方を考えてきた。だがインプット中心の学習から、プロセッシングとアウトプット中心の学習へと進化すべき時期に、正しい適応ができていたのか、自信がない。コンサルティングという枠組みの中での適応が、部分最適でしかないのではないか、さらにはそこにも正しく適応していないのではないかと感じていた。それは社会活動において、なにが根底にあるメカニズムであり、人間の特性なのかを理解していないことに起因しているように思えた

まさに序文に書いたように、「焉を修め、焉を蔵す」ことから「焉を息し、焉を遊す」ようにすることが私の根本の課題であり、成長すべきところだった。そのため、この授業は私の最も重要な問に、何らかの指針を与えてくれるものだと信じ、履修することを決めた

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by flauto_sloan | 2009-02-09 20:27 | Harvardでの学び
競争と切磋琢磨と平等
ボーゲル塾の勉強会があり、テーマ別に分かれたグループが研究の中間報告をし、互いに意見を聞きあった(そしてその後は新年会)。個別の内容は書かないが、教育班の発表を聞いているうち、最近考えていた「競争と切磋琢磨の違い」が気になった。

競争の国アメリカ
アメリカは、競争の国だ。学歴や仕事では常に競争をし、勝つことを求め続ける。ミスコンから音楽コンクールまで、徹底した競争原理が働いている。スローンのリーダーシップのクラスで話したある友人は、人生の目的を尋ねたときに「競争に勝ち続けること」と答えていた。

自由の国アメリカは、アメリカン・ドリームを掲げ、民主主義と市場原理を推進することによって、勝ち負けがはっきり分かれ、常に競争に駆り立てられる世界を作り上げた。成果としては、世界で経済をリードし、イノベーションを次々と生み出した。CEOや投資銀行員は破格の給与を手にし、人口の3%が消費の90%を占めることとなった。一方、3人の勝者の影には、97人の敗者がいる。

アメリカでこの敗者はどうなってしまっているのだろう。そんなかねてからの疑問を、ハイフェッツ教授の授業でチームメートだったカレンに聞いたところ、彼女自身もずっと心を痛めている社会問題だった。色々話して、以下のような区分がありそうだった。
  • まず、始めから競争に勝つことを諦め、ブルーワーカーとして働き、週末は近所の野球チームの監督をすることに幸せを見出すような人がいる。今回のような不況では真っ先に被害が及ぶものの、これはこれで生き方として確立している
  • 次に、競争に参加したものの敗れ、身の丈にあった仕事を見つけ、再び競争に参加することを目論んでいる人がいる。アメリカの労働流動性の高さと、再チャレンジを許容する文化があるため、大部分の人はこの行動をとる
  • そして、競争に敗れ、職を失ったことを自己実現を達成できなかったことと取り違え、破綻する人がいる。精神を病んだり、時には自殺する人もいる(アメリカでも解雇により7人が一家心中したニュースが話題になった)
  • 最後に、競争に暫定的に勝っていても、いつ敗者になるかもしれないという強迫観念に付きまとわれ、勝つことが幸せや平穏をもたらしていない人がいる*1
常に競争にさらされ、勝つか負けるかのバイナリーな価値観でいることは、一部の才能や強運の持ち主以外には、精神的に過酷なことなのだろう。特に後半二つのカテゴリーは、アメリカの競争原理が抱える精神病理といえよう。

競争と切磋琢磨の違い
日本でも成果主義など様々な競争原理が導入されてきた。だが残念ながらこの競争原理は、和魂洋才とはいかず、弊害もしっかり輸入してしまっているように思える*2。では和魂は何だったのか。それが切磋琢磨という概念だったと思う。

競争はサルやゴリラの群れにもあるように、人間本来の性質だ。当然日本にも競争はあったのだが、そこには切磋琢磨の精神があった。お互いを刺激し、能力を磨ぎ合う精神だ。ここでは勝ち負けを喧伝したり、相手を追い落とすことは恥でしかない。相手が勝ったところを見て発奮し、自らの能力や精神を鍛えるという、アップサイドに注目した健全な競争関係だ。

もちろん実際には詐術や姦計に長けた者が、敵対者を追い落とすという政治的競争はあったのだが、少なくとも切磋琢磨の概念は美徳としては行き渡っていたのだと思う。

もはや仕事の世界では、グローバル化というアメリカ化が進み、切磋琢磨ならぬ競争原理が染み渡ってしまったし、今更競争の仕組みを変えることは、文字通り企業の競争力の低下に繋がりかねない。だが、せめて教育の現場では、勝ち負けの競争原理ではなく、切磋琢磨という前向きで健全な競争を教えて欲しい。勝ち負けの方は、いずれ塾の模試で学ぶのだから。

平等主義は振り子を戻しすぎ
よく競争原理の揺り戻しとして、平等主義が語られる。運動会でみんな一等賞というものだ。これはこれで戻しすぎで、人間本来の向上心を萎えさせるだけだ。競争は人間の本能のひとつなので、否定することは健全ではないし、結局平等な社会(それをユートピアと呼ぶ人もいるが)は存在しない。

むしろ競争自体を悪とするのではなく、競争の結果をどう解釈し、行動に繋げるのかをきちんと教えるべきだ。敗者への侮蔑と勝者への妬みではなく、結果を自分の糧とすることを教えなければならない。


何事にも"competition"と唱え、競争原理に行き過ぎたアメリカと、平等主義に傾いたひところの日本を眺めると、どちらも極端であり、相応のリスクとリターンを伴う。日本が培ってきた切磋琢磨の精神は、この対立概念を弁証法的に解決した智慧だったのではないかと思う。それを失いつつあるのは、非常に残念でならない。


*1 システム・ダイナミクスの"happiness"の回で示されたデータに、CEOがどれだけ幸せを感じているか、というものがあった。正確なデータは失念したが、驚くほど幸せを感じられていなかった
*2 もちろん、利点が正しく発揮されたものもある。成果主義を例に取ると、優秀な人に相応の報酬が支払われれば、正しいインセンティブがはたらく。だが実際は成果主義が賃金削減の口実に使われたケースも多い

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by flauto_sloan | 2009-01-23 11:37 | Harvardでの学び
チームワークと信頼
c0131701_5415992.jpgハイフェッツ教授のリーダーシップの授業では、グループによるコンサルテーションが重要な要素となる。二つの授業のチームは、メンバーだけでなく、グループダイナミックスの発生と発達の仕方も異なる。
その結果、異なる信頼関係が醸成され、非常に学ぶことが多かった。


秋学期は、チームが週に一回、10週間にかけて集まり、それぞれの失敗例をケースとして、どういった構造的要因が失敗を生み出したのか、どうしたらその構造を知り得、対処できたのかを議論した。同時に、ミーティングの中で、チームがどのような動き方をしたか*1を分析する。この過程で、ゆっくりではあるが深い信頼と、お互いを認め合い衝突も許容できる環境 (holding environment) とが培われていく。そうして、後半となると驚くほど深く生産的なミーティングとなりうる。

チームメンバーは、アメリカ人(白人とユダヤ人)、ドイツ人、フランス人、ナイジェリア人、パキスタン人、ベトナム人、日本人と、実に多様で年齢層も幅広い。この多様性によって、自分が思いつかなかったような視点が持ち込まれる。チーム内の大小様々な衝突も生産性に寄与するようになっていく。チームワークによって、陳腐な言い方だが「1+1を2以上にする」ことを実際に目の当たりにすると、その効果を信じざるを得ない。


一方この冬は、チームが毎日顔を合わせ、ミーティングを行う。火曜などは一日中コンサルテーションだ。長時間を共にすることで信頼を急速に醸成する一方、対立構造を深く考え、表に出すことはなかなか難しい。個人の内面というトラウマを曝け出すためには、かなりの信頼が必要なのだが、自然とそこまでの信頼を醸成したというよりも、お互いに自分が曝け出したから相手に曝け出させる、という、囚人のジレンマ的行動によって信頼が作り出されたのだと思う。

また、偶然とはいえ、チームメンバーの多様性も秋に比べて低かった。日本人がなんと2人、中国人、アフリカから2人(エチオピア、ケニア)、アメリカ人2人(白人、ユダヤ人)という構成で、年齢も非常に若い人が二人。他にも推測だが、信頼関係における心理学的な問題もあったと思われる*2。これでは真のholding environmentが生まれず、なかなか上手く高い生産性の議論に化けない。

後半の途中から議論が深まってきたが、秋ほどの深みではない。多様性の重要さと共に、環境作りの難しさを学んだ。最後の授業の時、何故か私は秋学期のチームメンバーと並んでいた。最後は彼らと一緒にいたい、と思ったし、彼らもそう思ってくれたのだろう。

冬のチームの中でも、教育学部のドクターであるカレンとは、それぞれの複雑さを理解した上で特に仲良くなった。Confidant (刎頚の友)を作ることが重要だ、と教授は説くが、カレンは秋のチームメンバーの数名ともども、そんなConfidantになった。


*1 どんな対立構造があったか、発言や議論への介入がどのような効果をもたらしたか、以前の行動と今週の行動とがどう影響しているか、など

*2 グループワークの中では、各人がトラウマを曝け出し、自己と組織に対する欺瞞を明らかにすることで、嫌が応にも自分を冷静に見つめることとなる。これは恐ろしいことである。
心理療法で最後まで医師を欺こうとする人がいるように、この恐ろしさから防衛や規制がはたらく人がいるのも止むを得ないだろう。私は敢えて自分を全て曝け出そうとしたが、それでも欺瞞が全くなかったかと言われると、ないと言い切る自信はない。
他のメンバーにも、恐らく全てを語っていない、或いは我々をミスリードするように情報を隠したり偏在させたりしているのではないか、と思われる人がいなかったわけではない。人はそれを感じ取ってしまう。これでは純粋な信頼関係を構築するのは難しい

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by flauto_sloan | 2009-01-17 04:32 | Harvardでの学び
ハイフェッツ教授のリーダーシップの授業を終えて
c0131701_524470.jpg密度の濃いロナルド・ハイフェッツ教授の2週間のリーダーシップの授業が終わった。
秋学期以上に、感情のジェットコースターとなる授業だった。1週目の終盤から、授業中に泣き出す人が現れ、私も最後の日は喜怒哀楽全ての感情が湧き起こり、最後は涙せずにはいられなかった。

ハイフェッツ教授自身の凄さはもちろんあるのだが、それ以上に彼が作り上げた環境(授業の設計とグループ・ダイナミクス)と、そこでお互いに刺激しあう学生のコミットメントの深さが素晴らしい。


授業や教授に対しては、心酔する人から反発する人、納得する人から懐疑的な人まで幅広い。多くが心酔することから「ハイフェッツ教」と揶揄されることもある。だがそんな価値観の幅を許容し、創造性・生産性を促す環境を作り、経験させることで、我々がリーダーシップを執る際に達すべき、環境の質についてのレファレンスを持たせてくれるのだ。

授業で教わる "holding environment" や "creative range of disequilibrium" といった抽象的な概念は、実際に経験しないことには理解できないし、それをどの程度まで持っていくと、目的を達成するための創造性を発揮できるのかについても、経験しないことには想像がつかない。授業中に様々な実験を学生に行わせることによって、自ら気づき学ぶことを促すのが、教授の役割なのだ*


c0131701_5293671.jpg特に冬学期は、自分の内面に抱えている役割や祖先への忠誠が、自分の行動や思考を如何に制約し隷属させているのかを学ぶ。
それを意識しそこからできるだけ自由になるためには、大きな苦痛を伴う。その副産物として感情の大きな起伏が個々人の中に生まれるし、それがクラスの中に共鳴し増幅して、大きな感情のうねりを生む。

その振幅がピークになる時、涙する者が現れる。

人生の様々な局面でリーダーシップを発揮すると、人々に変革を促し、喪失の痛みを始めとした大きな感情を生み出す。その感情の起伏を知ったからこそ、彼らへの憐れみを持てるし、その感情を包容することができる。その対処法と自分の許容量を知るための2週間だった。


授業が終わると、学生全員がスタンディング・オベーションを行った。自分を見つめ直し、将来を考え、傷を癒し前進するための機会を与えてくれた、素晴らしい授業だった。

だが、学びを「ハイフェッツ教」として絶対視・神聖視してしまうことは生産的ではない。彼のフレームワークにも限界はあるし、日本というコンテキストであまり有用ではないものもあろう。それを見極めて、極めて個人的な学びとして消化し昇華することが、今後求められる課題だ。


* 勿論この手法には限界がある。教授が授業の設計時に大きく参考にした心理療法の手法(教授は精神科医)にも限界があるのと同じだ。ある信念を長年かけて増強し続けてきてしまった人は、その信念を失う・変更することに対して大きな抵抗を覚え、その試みを持ちかける教授や友人を敵視しかねない。そんな学生を個別対応することは、授業を通じては行えない
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by flauto_sloan | 2009-01-16 22:44 | Harvardでの学び
CJK caucus - 赦しのためには
注: コメントを受け考えた部分を修正しました。まだ粗い作業仮説を深めるべく、コメントを歓迎します

先週の日中韓での集まりを受けて、三カ国で「お互いを聞き合う会」を行った。白黒付けることを一切せず、純粋に相手の考えとその背景にある構造を知ることを目的としている。そこでの議論から、日本が中韓の国民に届く形で謝罪をし(或いはこれまでの謝罪が届くようにし)、彼らが日本を赦せるようにすることの意義を考えさせられた。

丁度リーダーシップの授業のテーマも「赦し」で、赦しがもたらす効果について議論した後であり、日中韓の関係に「赦し」はどうやったらもたらされるのかを中心に議論を行った。

日中韓で語られていることの違い
中国や韓国が日本について知らない(よう教育されている)ことは日本でも知られているが、果たして村山談話も戦後賠償の取り決めについてもほとんど知らない。ケネディスクールに来る学生ですら知らないのだから、一般市民は当然知らないのだろう。

一方、私も中韓の中で、如何に日本が拡大思考の覇権主義国家だと信じられているのかを知らなかった。話は聴いていたが、ここまで危険国家と思われていたとは驚きだ。日本人が戦後教育の結果、戦争を毛嫌いし、自衛隊の拡張にも相当に抵抗している現実と、まるで正反対の捉えられ方である。

また、60年という歳月は戦後問題を解決するのではなく、より困難にしている側面もある。世代が変わり直接戦争を経験していない世代は、直接的なわだかまりを持っていないために、こうして同じ机で議論し、友人となれる。だが一方で、60年間繰り返し日本の残虐行為を語られ続けたために、憎しみは増幅され固定化されてもいる。南京大虐殺の犠牲者数を正確にするといったことは、政治による外敵化を防ぐために大事であるが、より深刻なのは感情の問題であり、どうやって彼らが日本を許せるようになるかである、と実感する。


今後どうするか
議論は非常に実りと気づきのある有益なものだった。だが結局、こうやって話し合って理解が進んでも、その理解は問題解決のための要素でしかなく、どうすればいいのかの答えは出てこない。

仮に将来リーダーとなるであろうケネディの学生が相互理解をしても、中国や韓国に戻れば、途方もない反日感情と祖先への忠誠心のうねりを前にしては、スケープゴートとなることを避け、日本との関係改善を図ることを諦めてしまうかもしれない。

一方、日本にしてみてもこれまでの日中・日韓との公的な取り決めを超えた行動を取ることは困難だし、ドイツとは事情も文化も異なるため、同じ行動をとれば解決するとも思えない。解決に向けた努力としては、ODAを初めドイツに劣らないほどしてきたとも思える。


だが敢えて戦略的に思考の幅を広げてみれば、今改めて日本が謝罪を行い、中国韓国の国民レベルが日本を赦せるようにするという選択肢は、考えてみる意味があると思う。尤も、国際関係や政治について素人の考えではあるし、賠償をどこまで行うか、日本の誇りをどう保つのかといった頭の痛い問題があるのも理解しているのだが、敢えてその可能性を考えてみた。

今後30年、40年を考えたとき、日中韓の経済・軍事的バランスは大きく変化すると考えられ、日本が交渉に有利な立場でいられる期間は残り少ない。日本の人口は1億人を切り、高齢化が大きく進む。経済規模も縮小し、軍備への歳出も(予算の1%枠を大きく超えない限り)縮小していくだろう。

方や中国は経済規模が今よりも拡大し、軍備も増強する。韓国も南北統一ができれば、今よりも経済・軍事規模が増大する可能性がある。勿論3カ国とも高齢化という共通の課題があり、時間差はあれどいずれ中韓も人口減少に向かうだろう(中国が一人っ子政策を廃止しない限り)。だが日本は既に人口減少しており、相対的な力は真っ先に弱まっていくだろう。

戦後問題の解決を先延ばししても、中韓の若い世代から感情や「語り継がれる記憶」を消すことはできないし、むしろユダヤ・パレスチナのように3000年間のわだかまりへと発展する可能性もある。先延ばししていずれ謝罪することになれば、それこそ日本に交渉力がなくなっており、非常に不利な条件を振られる可能性がある。過去の蓄積があり、経済的・軍事的に有利な立ち位地にある今のうちに、過去を清算しておくことは重要ではないかと思う。


逆に今清算しなければ、ますます交渉しにくくなり、日中韓ブロック経済の実現は非常に難しくなる。世界各地域でのブロック経済化が進展している中で(ゆり戻しもありうるが)、極東だけ国家単位では、じり貧となる可能性もある。

また、仮に米中の2大国が戦争することになれば、日本とその海域は戦略的重要拠点として緒戦の場となるだろう。その時までに反日感情を解消できていなければ、なかなか想像するに恐ろしい事態ともなりうる。


だが日本が影響力を弱めていくことが予想されていれば、中韓の自然な反応は、日本の謝罪を受け入れず、問題を先送りして、交渉力が有利になったところで再燃させるというものだろう。それを防ぐには、第三者である国際機関か、それよりも強力な国民を巻き込む必要がある。

外交上の枠組みをどうすればよいのかはわからないが、両国民の目に見え実感できる形で、彼らが過去と決別し、日本を赦すことによる平穏な心を得るような手助けをしなければならないと思う。それは謝罪かもしれないし、別の形かもしれない。

実際に過去を清算しようとすれば、日中韓それぞれの政治家は売国奴呼ばわりされ、政治的にも生命的にも危機にさらされかねない。だが、日本の国益を考えたとき、経済にもソフトパワーにも翳りが見えてきた今、問題解消の最後の秋であるように思えてならない。


だが今回、ケネディの中韓の学生と話して実感したのは、彼らも日本にどうして欲しいのかわかっていない、ということだ。謝るのは一つの方法だろうが、十分ではないし必要でもないかもしれない。日本がどうするべきなのかは、日本だけで考えて答えが出る性質のものではない。このCJK Caucusのような、お互いが相手を聞ける環境で、感情的な対立も適宜しながら議論していく中で、答えの仮説が出て来得るものだろう。

まだこの学生間の対話は始まったばかりだ。卒業までに答えの萌芽は見られないかもしれないが、議論していく価値はあるはずだ。
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by flauto_sloan | 2009-01-15 05:42 | Harvardでの学び
自己と役割
この記事ほぼ純粋な思索メモであり、論文ではなく随筆だ、と断っておきたい。

今回のリーダーシップの授業では、例によっていくつもの答えのない問が投げかけられている。その中心にある問が、次のものだ。

"How to distinguish Self from Role"

通常、「自分」と考えているもの(例えばMITの学生、フルーティスト、日本人、コンサルタント、等々)は「役割」でしかない。ではそんな「役割」を掻き分けていき、自分の奥底に潜むであろう「自己」とは何なのか。それが問われている。

凡そ人間が3000年前から考え続けている哲学の命題であり、すぐに答えが出るものではない。だが、答えが出ないなりに考えることに意味があると思う。また答えも、普遍性や絶対性など必要なく、自分自身が理解できる「自己」という答えが見出せれば充分なのだろう。

以前深く傷つき悩んでいた頃にも、同じような問を持ったことがあった。己は何者なのだろうか。その時の絶望と解けない苦しみを、再び胸を開いて見つめ直す機会だった。


最初の答えは、自己などない、だった。理性的論理的に自分の中身を調べていくと、それらは遍く役割であり、外部や他者に規定されてしまっている。感情すら外部刺激に対する反応であり、自分が一つの大きな機械のようにしか思えなかった。それはなかなかに絶望的な気づきだ。

だが次に、そこに絶望する自分がいるのに気づき、それが自己ではないかと思った。デカルトの『方法序説』での哲学の第一原理、「われ惟う、故にわれ在り」の意味を理解した瞬間だった。

だがここからは何故か西洋哲学の流れにはあまり乗らず、仏教、そして個人的な重要テーマである「嘘」の意味、さらにはMITで学んだシステム・ダイナミクスの概念を加えて考え続けている。


私なりに行き着いた答えは、自己とは学びの蓄積で、初期値は生物としての先天的な性向、というものだ。哲学者に聞いたら古い概念なのかも知れないが、少なくとも自分にとっては、これを手にして前に進むだけの意味がある、暫定解だ。

どんな役割のときであっても、様々な経験から、何らかの学びを得る。この学びは極めて個人的なもので、経験の性質や強度、状況や感情によって、同じ経験によっても人次第で学ぶものが全く異なる。

一方、砂漠の真ん中に衣食住を与えられて放置されたら(あらゆる役割から無縁でいたら)、おそらく私は思索にふけるだろう。その時の思索の対象は、自分自身がこれまでに蓄積した知恵や知識といった学びであろう。これは基本的に誰にも奪われない。

すると経験や学問で自己が豊かになり、喪失や忘却によって衰える。

経験から学びがなかなか得られないときの焦燥感や鬱屈とした気持ちは、自己の衰えを支えられない恐れからくるものかもしれない。学んだものが価値を失うかもしれないような大きな変化には、自己を失うという恐れが抵抗を呼ぶのかもしれない。


自己と役割は峻別できるものではなく、相互連関している。自己だけでは自閉症やソシオパスになりかねないし、役割だけではまた恐ろしい虚無感や絶望に見舞われる。この二つの連関を認め、程好い平衡に至ることが肝要だと思う。その自己の部分を意識できるようになったことで、同時に役割も意識し、心が遊ぶことができるようになったと感じられた。
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by flauto_sloan | 2009-01-11 21:25 | Harvardでの学び
日中韓で相手を聞き合う
ハイフェッツ教授のリーダーシップの授業で、冬の主要テーマの一つが、「祖先への忠誠」とそれに伴う「喪失の痛み」だ。そのテーマの最中、教授は日中韓に根深く残る戦争の傷跡を刺激してきた。

ある韓国人は、身内に日本軍に酷い仕打ちをされた人がいたことから、日本を激しく糾弾する。日本は自ら行ったことに対して無知であり傲岸だと非難する。ある中国系アメリカ人は、日本に対して好感を持っているものの、祖父母から繰り返し聞かされた日本軍の残虐行為を思い返すと、日本に対して怒りを覚えざるを得ないという。ある中国人は小泉首相の靖国参拝を非難する。それに対して日本人も自らの立場や信念を述べる。


ここまでだと、歴史問題が争点となる議論ではよく見る光景なのだが、そこはハイフェッツの授業。適宜教授が介入し、「相手を聞く」ことを強く求める。そして教授は、かつてある日本人生徒が名づけたという "victim's trauma (被害者のトラウマ)" と "aggressor's trauma (侵略者のトラウマ)" という考え方を提示した。そう、日本はこの両方を持っていて、それぞれのトラウマに対して歴史と記憶を持っているがために、中韓に対しても複雑で一貫性のない対応となってしまう。

さらに日本人は、和辻哲郎が『甘えの構造』で論じたような、甘えを基調とした精神構造のために、中韓の被害と被害者意識を包摂して、自らの痛みとして自傷行為に耽ってしまう。その結果が自虐史観だ。私個人の中でも、この自己矛盾的感情は解決されずに残っている。


ではどうしたらよいか。答えなどありはしない。

ハイフェッツ教授は有用な考え方・ツールは与えてくれるが、それを選び、磨き、使うのは我々だ。そして最も重要なことは好奇心を持つことだ。予見なく相手のことを知ることは、正しい解を得るための必要条件だ(言うまでもないが、十分条件とは程遠い)。

授業が終わると、自然と三カ国の学生が教室に残って集まり、それぞれの考えを話し、反論することなく聞く。歴史認識の違いだとか、どちらの教科書が正しいとか、そういう論戦は時には必要だが、一方でこうして相手を聞くこともまた重要だ。

ケネディの日本人に比べ、ビジネス畑の私は、日中韓の関係についてかなり楽観的なのだろう。ひとまず、夕食は三カ国(+インド人)と食べ、それぞれが築き上げてきたDNAのうち、どれくらいが共通でどれくらいが異なるのかの感覚を強固にした。くだらない話も相当にした。

答えなど見えないが、少なくとも後退はしていないだろう。
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by flauto_sloan | 2009-01-08 20:36 | Harvardでの学び