MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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拠って立つもの
渡米して一年、ひたすらにインプットをし続け、それを咀嚼し、自分の経験や知識を分析し綜合し、それが自分の生にどんな意味があるのか、否、自分の生にはどんな意味があるのか、を問い続けている。

お陰で大分、昔のように頭が回転するようになったのだが、理論やフレームワークの類で自分を理性的に分析していくと、当然割り切れない何かが残る。この何かというのが厄介で、感情と言うのだろうか、コギトというのだろうか、妬みや諦め、自惚れや慈しみ、利己心や使命感、色々なものがない交ぜになっている。

その感情すらも、何故そんな感情を持つのか、と何故を繰り返していくと、薄々感づいている自分の弱さや過ちが見えてきてしまう。


自分がどのような人間でありたいのか。

目標をダ・ヴィンチのような全能者に据えてしまっていると、自分とのギャップしか見えてこない。そこまで行かなくても、周りで成功・活躍している人、頑張っている人を見ていると、安穏とした自分との差が見えてくる。

ギャップがあるならば、それを埋めるよう努力するか、ギャップをギャップのまま諦めるかが基本方針だ。自分は全能ではないし、体力精神力の個体差もあるので、結果として努力するものと諦めるものを峻別しなければならない。


だが、どうやって峻別したらいい? 何が判断基準となろうか。

金銭的・物質的豊かさ? 貧困撲滅のような人道的善行? 科学的真理の探求? 美学音楽的美しさ?

これこそが自分自身で選ばなければならない価値選択で、答えなどありはしまい。どれを選んでも、同じ判断基準を選んだ人の中では競争に晒され、異なる判断基準を持つ人には蔑まれるか羨ましがられるかだ。

哲学を学んでこなかったのが悔やまれる。宗教だろうと信念だろうと、一本筋を通して生きている人は強い。

これまでに私は、ふらふらとこれらの判断基準の間を中途半端に揺れ動いては、競争に疲れ、他者を妬み、一度捨てた他の選択肢を拾い直してきた。

フルーティストを諦め進学し、科学から離れビジネスに職を持ち、仕事をしつつも社会貢献に興味を持ち…

強いて良い所を挙げれば、一通り見てきた、ということか(人道的善行はまだ入り口だが)。ただこのままでは深みと熱さに欠けてしまう。


30は而立であって、もう迷ってはいられない。結局自分が本当に信じられるものは何なのか。捨てざるを得ないものはなんなのか。捨てるにしてもその喪失は減じられないか。

これまでの選択の経験から、学んだものはある。モラトリアム的選択肢ばかり選んでいて、含み損となっていた喪失を「損切り」するのが怖くて向き合えなかっただけだ。ようやく最近、向き合い、学びを抽出する覚悟ができてきた。

こうして厳しい問いを自分に投げ続けているのだが、心の奥の何かが、まだ泣きながら駄々をこねている。而立のタイミングでこの結論を出すための2年間があるのは、天佑だろう。

本当はどれを選択するのかもう決めているのだろうが、この駄々っ子が泣き止まないので、もう少し悩んでいたい。
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by flauto_sloan | 2008-07-17 05:54 | Mens et Manus
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