MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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MET - 蝶々婦人と文明開化
c0131701_639322.jpgMETでプッチーニの『蝶々婦人』を聴いたのだが、アメリカの日本人としてこれを聴くと、いたたまれない気持ちになった。
日本では蝶々婦人に共感し、ピンカートンって非道い奴だ、と思えばよいだけなのだが、アメリカでの文脈でこの劇を見ると、途上国であり後進国であった日本(特に日本人女性)への差別が、一層透けて見える。演出がそれをオリエンタリズムに逸らしているものの、複雑な感情だ。
日本はかつて貧しい後進国であり、今の繁栄は歴史の中の例外かもしれず、驕ってはいけないと改めて思わされた。


METの演出と蝶々さん
音楽としては、いい演奏だった。圧倒的な歌手はいなかったのだが、皆脇役にいたるまでレベルが高い。中でも主役の蝶々さんは、狂気すれすれの愛と執着を、歌と演技で見事に表現していた。

蝶々さんの子供は、人形浄瑠璃から着想して、黒子3人が操る人形だった。だが日本人なら「黒子はいないもの」として見るが、アメリカ人はそうは見ない。むしろ意味がわからず、人形の気味悪さが余計気になってしまっただけのようだ。

舞台装置はシンプルだが面白い。奥から下り坂になる舞台と、舞台を上から反射させる鏡とで、奥行きを出すとともに、群集の着物の美しさと、孤独の寂寥感とを増幅する。照明の色合いも、原色を使ってドラマ性を高めていた。

演出は、なかなか日本について研究していると思わせる。着物も仕草も、不自然さはあっても許容範囲。ただ一点、着物の下にネグリジェを着ていたことを除けば・・・


日本の過去を見つめる
だがピンカートンが領事に、蝶々さんが所謂「現地妻」だとほのめかすくだりは、アメリカの驕りと、日本が貧しい後進国だった歴史を思い起こさせた。日本を離れた上で歴史を学び直すと、日本が先進国であったことは、ここ30年の他には殆どないと、改めて感じる(先進、の定義にも拠るが)。日本は美しく優れた国だ、日本人は礼儀正しく賢い人種だ、というのは、どれくらいの時間の幅を念頭に置いたものなのだろうか。

戦前や戦後(「もはや戦後ではない」と宣言されるまで)の日本は、犯罪も多く、貧しい国でしかなかった。その時代に生きていない我々の世代は、発展した日本しか知らない。だがそれは、日本の長い歴史の一場面でしかなく、今の日本人の特性や文化は、先人の苦労の賜物であり、所与のものでは決してない。ましてや優性思想など論外だ

少なくとも、この蝶々さんの時代は、日本は搾取対象であり、蝶々さんという日本女性は、誤った誇りを持ってしまった、悲劇の現地妻でしかなかった。日本に誇りを持つ身としては、やや感情的に反発したが、冷静に考えると、日本の歴史的位置付けを改めて学ぶことになった。


驕ってはいけない
日本では最近、外国人排斥感情が強まっているように感じる。もともとほぼ単一民族(もちろんアイヌ族や琉球民族を忘れてはならないが)であり、異質なものに対する拒否反応が強いところに、若者の多くが先進国としての日本しかしらないことによる優越意識、不況で自らの将来も不安になったことによる、自分の取り分確保の意識が重なり合い、外国人というわかり易い部外者に問題を押し付けているようにも映る。

だが人口減少の日本では、移民なしには経済は先細りするだけだし、優越意識は2600年(?)の歴史のごく30-40年で生まれた徒花でしかない。自分の見たものだけで、世界を判断してはいけない。

そんな気づきを、蝶々さんの美しい舞台と歌から得た夜だった。
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by flauto_sloan | 2009-02-27 23:38 | 音楽・芸術
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