実り多かった2008年も終わり、いよいよ帰国の年2009年だ。この1年を振り返り、今年の目標を立てたいと思う。
2008年を省みる
学ぶことを学び、考えることを考えた一年
この一年間、授業や課外活動で、非常に多くのことを学んだ。
経済学、システムダイナミクス、リーダーシップ、交渉術、ファイナンス・・・ だがそれらを振り返ると、結局のところ
学ぶとはどういうことか、ということを学んだのだと思う。
経験はそれ自体必ずしも学びではなく、そこへ自分の信じる、きわめて個人的な何らかのモデル(もしくは信念)を適用して分析し(これが反省というものだと思う)、モデルを追認するか、期待値を現実に引き寄せるか、アノマリーを見つけてその理由を考え、モデルを更新することで、学ぶことができる。その差分である
学びの蓄積が、自己を形成し、社会との関わりへの自由度を増す(より広範な選択肢を持ちうる)のだと思う。
社会に出てからは、当てはめるべきモデル(価値規範、哲学、将来像等々)がしっかりしていなかったがために、コンサルティングによる豊富な経験をしておきながら、「学んだ」という実感がなかった。経験を経験として消費していただけだった
*1。
今は失敗も成功も、経験を糧として追体験し、学ぶだけの余裕と知見を得た。上手くいったプロジェクトを振り返って自信を取り戻し、失敗したプロジェクトを直視して、なぜ失敗を免れなかったのかへの想像力が少しばかりつくようになった。
そうして学ぶことを学ぶと、次に考えることを考えるようになった。考えるとはどういうことか、考えることの限界はどこにあるのか。まだまだこれについては考えがまとまらないが、やはり
世界をある一定の前提の下で、あるモデルへと捨象することで、問題に対する答えの仮説を構築することなのだろう、と思う。だがそのモデルは二元論的、還元的であっては最早現実に追いつかず、全体知を同時に得られるものでならねばないだろう。
システム・ダイナミクスはその点で非常に優れたモデルだと思う。世の中には限りない幅があり、善悪や白黒の二元論で考えることは、効率性のために妥当性を犠牲にしている。「ポジションを取る」と謂われる強い判断を繰り返していくことは、スピードを得られる一方で、真理とのギャップが摩擦を生む
*2。真実は善悪の狭間に、という単純な直観と思考の柔軟性が必要なのだろう。創造性は対立構造を止揚することで、往々にして得られるのだから。
そうして考えることを考えていくと、伝えるべきことをどう伝えるべきか、という最後の問になる。どんなに正しいと思われることを考えても、正しく伝えて人を動かせなければ、意味がない。ここで、コミュニケーションやリーダーシップからの学びが重要になってきた。
自分の考えを敷衍していくためには、
自分の考えを相手が受け入れてくれるような環境・構造を作り、受け入れてくれる相手の思考や価値観を知り、効果的な手段で伝えなければならない。特に最初に揚げた環境や構造をどう作るのかというのが非常に重要だが、これが一番難しい。どうやって人の認知に入り込むか。
ここで、私の生来の興味である、嘘とは何か、という興味に立ち戻った。嘘とはなんだろうか、効能、手法、評価(社会的、宗教的)と、考え始めると興味深い。このあたりが今後の興味分野となるだろう。
真に愛するものとしての音楽
NYにボストンと、数多くの演奏会に出向いた一年でもあった。音楽を聴き続けているうちに、改めて自分が音楽を本当に愛していること、良い音楽を聴くと理屈抜きに喜びを感じていることを知った。
そしてリーダーシップの授業を通じて、
音楽の持つ深く強い力を確信するようになった。人間の本能的活動を、磨き鋭くすることは、人間本来の力を強めることでもあるのだろう。そして個人としての能力を高める日々の鍛錬は感性を研ぎ澄まし、全体としての響きや表現を高めるための合奏は、理屈ではない本能的な協調能力を育むのだろう。
では私は今後音楽とどのように関わっていくべきか。それが大きな問として、今自分に投げかけられている。
漂泊の中に見出す生
妻と夏休みを中心に、数多くの旅に出た。北米・中米の大自然と、そこでの人の営みの違いを目にし、体感し、生きるとはどういうことなのかを考えさせられた。
過酷な自然と豊穣な自然、その中での人々の生活と感性・価値観との関係は、単純化できないものの多くの智慧を与えてくれるように思える。
中西部の荒々しく広大な大地に対するインディオの崇敬、プリンス・エドワード島の美しく豊かな自然から生まれる文学、モントリオールの鮮やかな山々とゆったりと満ちた生活、テキサスの広大さと歴史からくる自立心・・・ 旅をすることの面白さをつくづく実感した。
そして何より、妻と素晴らしい時間を過ごせたことは、
我々夫婦の忘れがたい財産だ。
恋人から伴侶へ
妻が一足先に卒業し、今年は比較的余裕を持って二人でいられる時間が長かった。
恋人気分に溢れた新婚生活から、生涯の伴侶との夫婦生活へと脱皮した一年でもあった。
二人で多くの音楽を聴き、旅をし、美味しいものを作り、二人での時間を積み上げて行った。くだらないことから真面目なことまで、色々な話をして、妻の新たな一面を多く発見した。そして改めて、この人と過ごせる人生を喜び、出会えたことに感謝する。
帰国後は、一緒にいる時間は少なくなってしまうだろう。子供や健康など、色々と不確定要素もあろう。だが、この人となら乗り越えられる、そう確信できるだけの信頼をお互いに得られたと思う。
交友と好奇心
ボストンでは、ボストン日本人研究者交流会の幹事として、リーダーシップの実践と交友の拡大を行えた。
幸運にも今年の活動指針が大当たりして、毎回通常の2倍ほどの参加者に恵まれている。お陰で数多くの人と知り合えたし、また自分の好奇心をどんどんと育てることができた。
また、他の幹事や参加者がどれくらい変化を許容できるのかを読みながら、少しずつ会を変えていったのだが、これはまさにハイフェッツ教授のリーダーシップ論の実践に外ならなかった。今のところは大成功なのだが、今年の残りがどうなるかはまだ予断ならない。
好奇心の重要性をつくづく感じるが、こと社会に出てからは仕事に忙殺され、好奇心を失い続けていた。この一年で数多くの講演の拝聴、旅、交友をする中で、本来持っていた好奇心を取り戻し、それをさらに成長させたと思う。他の人がどんな考え方を持っているのか、それは何故私のものと違うのか、違うことをどう捉えるべきか。
聞くことと訊ねることの重要性を改めて知ると共に、学び考え生きるための原動力としての好奇心を育てることができた。せっかく取り戻したのだから、仕事に戻ってもこの好奇心を再び失うことのないようにしなければ。
2009年の抱負
2009年は、いよいよ卒業し社会へ戻ることになる。最後の学期は、社会復帰する準備をするとともに、将来の布石を打っていきたい。
インプットをしつつアウトプットをする、知見を行動に移す実践をしていこうと思う。日暮れて道遠しと焦り逸る気もあるが、敢えてゆっくり歩み、自らの平衡を適度に保っていきたい。
学ぶものとしてはデザインを学びたいと思う。今後コンサルティングやその先で、組織や社会といったシステムをデザインする機会は多いだろうが、デザインとはそもそも何なのかを、少しでも知っておきたいと思う。
左脳的な分析や学問から得られるものは、大抵の場合、新たなシステムを設計するための制約条件やデザインルールでしかない。それを基に創造するためには、右脳的なデザイン能力・センスが不可欠だ。私は自分のことを本来右脳的人間だと思っているので(分析的思考は訓練で身に付けている)、それを伸ばしたい、という思いもある。
同時に、プロジェクトベースの授業を履修することで、分析と創造の統合、知見と実践の接合を行おうと思う。
そして仕事に復帰したら、ひとまず自分にできることをやり切り、やりたいことをやってしまおうと思う。出世など忘れて、自らの成長と充足を優先したい。出世しないという訳ではなく、出世欲という執着によって、自らに枷を嵌め、気が逸らされたくないのだ。世界観が広がったお陰で、役割や執着を相対的に見られるようになった、ということか。
泣いても笑っても卒業が迫っている。一日一日を充実させ続けたい。
*1 MBAのエッセイを父に見せたときに、「ふらうとは哲学を学んだことがあるのか」と言われたのは、こうしたモデルの欠如を感じ取ったのだろう。モデルを通じて学ぶ教育から、自らモデルを選択し作り上げていく職業に移るにあたって、適応が十分進んでいなかったのだろう。適応しなくても技術の習得だけで数年は持ち得るから
*2 性質が悪いのは、二元論が「理論的」「理性的」という評価を得易いがために、真理を直感的に把握している人を「非論理的」「浪花節的(?)」とレッテル貼りをしてしまうことだ