MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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自己と役割
この記事ほぼ純粋な思索メモであり、論文ではなく随筆だ、と断っておきたい。

今回のリーダーシップの授業では、例によっていくつもの答えのない問が投げかけられている。その中心にある問が、次のものだ。

"How to distinguish Self from Role"

通常、「自分」と考えているもの(例えばMITの学生、フルーティスト、日本人、コンサルタント、等々)は「役割」でしかない。ではそんな「役割」を掻き分けていき、自分の奥底に潜むであろう「自己」とは何なのか。それが問われている。

凡そ人間が3000年前から考え続けている哲学の命題であり、すぐに答えが出るものではない。だが、答えが出ないなりに考えることに意味があると思う。また答えも、普遍性や絶対性など必要なく、自分自身が理解できる「自己」という答えが見出せれば充分なのだろう。

以前深く傷つき悩んでいた頃にも、同じような問を持ったことがあった。己は何者なのだろうか。その時の絶望と解けない苦しみを、再び胸を開いて見つめ直す機会だった。


最初の答えは、自己などない、だった。理性的論理的に自分の中身を調べていくと、それらは遍く役割であり、外部や他者に規定されてしまっている。感情すら外部刺激に対する反応であり、自分が一つの大きな機械のようにしか思えなかった。それはなかなかに絶望的な気づきだ。

だが次に、そこに絶望する自分がいるのに気づき、それが自己ではないかと思った。デカルトの『方法序説』での哲学の第一原理、「われ惟う、故にわれ在り」の意味を理解した瞬間だった。

だがここからは何故か西洋哲学の流れにはあまり乗らず、仏教、そして個人的な重要テーマである「嘘」の意味、さらにはMITで学んだシステム・ダイナミクスの概念を加えて考え続けている。


私なりに行き着いた答えは、自己とは学びの蓄積で、初期値は生物としての先天的な性向、というものだ。哲学者に聞いたら古い概念なのかも知れないが、少なくとも自分にとっては、これを手にして前に進むだけの意味がある、暫定解だ。

どんな役割のときであっても、様々な経験から、何らかの学びを得る。この学びは極めて個人的なもので、経験の性質や強度、状況や感情によって、同じ経験によっても人次第で学ぶものが全く異なる。

一方、砂漠の真ん中に衣食住を与えられて放置されたら(あらゆる役割から無縁でいたら)、おそらく私は思索にふけるだろう。その時の思索の対象は、自分自身がこれまでに蓄積した知恵や知識といった学びであろう。これは基本的に誰にも奪われない。

すると経験や学問で自己が豊かになり、喪失や忘却によって衰える。

経験から学びがなかなか得られないときの焦燥感や鬱屈とした気持ちは、自己の衰えを支えられない恐れからくるものかもしれない。学んだものが価値を失うかもしれないような大きな変化には、自己を失うという恐れが抵抗を呼ぶのかもしれない。


自己と役割は峻別できるものではなく、相互連関している。自己だけでは自閉症やソシオパスになりかねないし、役割だけではまた恐ろしい虚無感や絶望に見舞われる。この二つの連関を認め、程好い平衡に至ることが肝要だと思う。その自己の部分を意識できるようになったことで、同時に役割も意識し、心が遊ぶことができるようになったと感じられた。
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by flauto_sloan | 2009-01-11 21:25 | Harvardでの学び
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