MIT Sloanにて、2007年から2009年までMBA遊学していた、ふらうとです。ボストンとNYでの暮らしや音楽、そして学びを書きつらねています。外資系コンサルティング会社に在籍(社費留学)。趣味はフルート演奏
by flauto_Sloan
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拍: 音楽と心臓
今月のボストン日本人研究者交流会は、ハーバード大学の音楽学部に留学中の桐朋音大の先生と、心臓幹細胞の研究をしている先生(高校の先輩でもある)のお二人に発表して頂いた。どちらも素晴らしい発表だったのだが、個人的な興味と相まって音楽学は特に面白かった。

音楽と向き合う
音楽という、どこにでも溢れているものを学問する音楽学。一演奏者として、漠然と感じていたものを色々と体系立てて説明され、気づきが非常におおきかった。以下に要点。
音楽学とは、音楽に関する学問の総称である。音楽そのものを扱うが、音楽の美しさを解明することはできず*1、音楽の価値は扱えず、さらに音楽に奉仕するとは限らない。

音楽学の従来の研究領域は、楽譜の発掘・真贋分析、作曲家や曲の分析であったが、近年は聴覚文化一般に対象が広がっている。作曲家の分析も、かつては作曲家とその周辺ばかりを研究していたが、近年は巨視的・社会的な視点で分析を行い、新しい知見を得られている
    例えばモーツァルトは、晩年人気が衰え、巨額の借金を抱えて貧しいままに亡くなり、共同墓地に埋葬されたとされていた。だが当時の出来事をしっかり分析すると別のモーツァルトの晩年が見えてくる。

    人気が衰えたのではなく父の死により成功談が書簡として残らなくなったのであり、借金の証文が文献として偏って目立つようになった。また露土戦争へのオーストリア参戦により、パトロンであったウィーンの貴族が所領に戻ってしまい、またウィーンの貴族も戦費が嵩んで音楽にお金をかけられなくなったことが直接の収入減の理由であり、天才故に理解されなくなった訳でもない。葬儀も、皇帝の勅令により、貴族以外は一時的に共同墓地に埋葬することになったためであり、貧富とは関係がない。寧ろ巨額の借金ができたことは信用があったことを示す。

    すると、実はモーツァルトは晩年まで裕福だった可能性が高い、と今は考えられている。
音楽は時間を伴うため、どう記録するのかが昔から重要な問題だった。「口述→筆記→録音」という歴史的変遷を経たが、それに伴い楽譜も「記録メモ→演奏マニュアル→演奏を採譜したもの」と変遷した。楽譜は当初口伝の補助として、宗教音楽という普遍的な音楽の覚書に使われ、パート譜としてのみ存在した。やがてスコア(総譜)が発明されると、音楽全体を設計できるようになったが、バロックやロココ時代の演奏における暗黙の前提は「書くまでもないこと」として楽譜には残っていない。それをわかった上で演奏するマニュアルだった。時代を下りウェーベルンの頃になると、作曲家が全ての音に表情をつけるようになり、演奏そのものを書き表すようになった。

楽譜はあくまで不完全であるから、楽譜テキスト・演奏慣習・個人の解釈をバランスをとることが重要であり、その結果として演奏解釈の多様性が生まれる。テキストは記号でしかなく、言語化されていない演奏慣習を理解・表現しないことには意味がない。そのためには様々な音楽を聴かねばならない。
モーツァルトの例は、ある現象を Inside-out で分析するか、Outside-in でシステマティックに分析するのかの違いが際立っていて面白い。音楽というと、こと内面的なものが重要だと思われ易いのだろうが、時代背景といった外部要因がシステマティックに作曲家やその内面に影響していると考えると、伝説や崇拝を超え、音楽の本来の姿が見えてくるのだろう。

また、演奏に当たっての三要件が楽譜テキスト、演奏慣習、個人の解釈であるというのは非常に納得がいった。これまで古楽演奏*2にも随分参加したが、まさに当時の演奏慣習を理解することが練習のほとんどだった。それ抜きの個人の解釈は滑稽だからだ。

だが一方で、こと訓詁学の文化が長い(?)日本では、CDによる録音された演奏を、演奏慣習と個人の解釈とを分離しないままに(そして良し悪しと好き嫌いをも混同して)、この曲はこう演奏されるべき、と思い込んでいる演奏家やクラシックファンが多いようにも思える。先輩があるアマオケで「なんでこのメロディーをそんな風に吹くんだ。どんな録音を聴いてもそんな演奏はない。一体誰がそんな演奏をしてたんだ。言ってみろ」と言われて、呆れてしまったそうだ。既存の録音の継接ぎを再現しても、個人の解釈はおろか演奏慣習も満たさないだろう。

ひょっとしたらこのメンタリティ(それも聴き手側)が、演奏会の軽視や歪んだ批評を生み出しているのかもしれない。斯く云う私自身に対する自戒も籠めてなのだが。


新技術への期待
心臓幹細胞については、最先端の医学だけあって非常に面白かった。心臓肝細胞は、自己複製ができ、心臓の構成要素に分化しうる細胞で、心筋梗塞の治療に期待されている。分化に対するニーズがある部位で自発的再生が行われるが、ニーズがなければアポトーシスするそうだ。それだけに、ニーズと患部が一致しない時にどうするか、ニーズのある部位にどう幹細胞を導入するのか、等々の課題があるという。だが非常に有益で期待が大きい新技術であり、今後が楽しみだ。

また、循環器系のお医者様に多く参加いただいたため、議論も現場感溢れる活発なものとなり、そのやりとりを聴いているだけで非常に考えさせられた。


2008年最後の交流会に相応しい、盛況で有意義な交流会だった。


*1 美しいとされるための要件記述に留まる
*2 古楽、といってもバロック止まりではある。リュリルベルなどフレンチ・バロックの演奏はなかなか勉強になった

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by flauto_sloan | 2008-12-13 23:19 | Guest Speakers
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